「ザ・ビーチ・ボーイズ」の版間の差分

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[[1962年]]末にデビューアルバムとなる『サーフィン・サファリ』を発表してから[[1966年]]の『ペット・サウンズ』の前まで、彼らは3年間で10枚のアルバムを発表している。うち、ライブアルバムが1枚、企画アルバムが2枚で、オリジナルアルバムは7枚となるが、クリスマスアルバム用にもオリジナル曲を用意している。CDの普及により、アルバム1枚あたりの曲数が増えた現在と単純な比較はできないし、曲の重複もあるが、1年にオリジナルアルバムを2枚以上出していたことになる。また、2作目まではベテランの[[A&R]]マンであった[[ニック・ヴェネ]]にプロデュースを任せたものの、[[1963年]]のオリジナルアルバム3作目『サーファー・ガール』からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになった。このとき、ブライアンはまだ21歳であった。
 
その後、ブライアンは敬愛する[[フィル・スペクター]]のウォール・オブ・サウンドや、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し才能を開花させた。この時期に、演奏技術に優れたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期のポップで商業主義的な『[[オール・サマー・ロング (ビーチ・ボーイズのアルバム)|オール・サマー・ロング]]』『ザ・[[ビーチ・ボーイズ・トゥデイ]]』『[[サマー・デイズ]]』が立て続けに発表される。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れる。
 
[[1964年]]末のツアーに向かう飛行機の中で、ブライアンは感情の抑制がきかなくなってライブを欠席する。そしてこれをきっかけに、コンサート活動への参加を止め、スタジオでの音楽作りに専念することを宣言してしまう。このツアーではブライアンの代わりを[[グレン・キャンベル]]が務めた。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになった。