「ドン・マローニ (作家)」の版間の差分

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== 来歴 ==
マロニーは1948年に[[シラキュース大学]]ジャーナリズムスクールを卒業した。
 
=== 日本赴任時代 ===
1970年、マロニーは当時[[クリーブランド (オハイオ州)|オハイオ州クリーブランド]]に所在していたハリスコーポレーションが日本市場への参入を試みるため、[[日本]]の[[東京都]]に国外赴任した。このとき、マロはハリスと日本の[[丸紅]]間で50対50の利益率となる合弁事業を交渉を結び、丸紅ハリス印刷機器会社の[[最高経営責任者]]([[最高経営責任者|CEO]])および[[最高執行責任者]]([[最高執行責任者|COO]])を務めた{{Sfn|Florida League, 2007}}。日本での起業のきっかけは日本車がアメリカ車を席巻した出来事によってインスピレーションを得たため、とマロニーは2003年の市長演説で語っている{{Sfn|Florida League, 2007}}。
 
日本での起業のきっかけは日本車がアメリカ車を席巻した出来事によってインスピレーションを得たため、とマロニーは日本2003年の市長演説語っている{{Sfn|Florida League, 2007}}。マロニー日本在住中に[[在日米国商工会議所]]、日米協会、インターナショナルハウス、そして[[日本外国特派員協会]]の会員を務めた。
 
また、マロニーは、毎週曜日に公刊された本国内英語話者向け[[英字新聞|日刊英字新聞]]である[[ジャパンタイムズ]]で毎週日曜日の新聞コラム「ネバー・トゥ・トウェイン」を執筆し、人気となった{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。1975年にはこのコラムは『''JAPAN:It’s Not All Raw Fish''』として[[ペーパーバック]]にまとめられた<ref>{{Cite book |title=JAPAN:It’s Not All Raw Fish |publisher=[[ジャパンタイムズ]] |author=Don Maloney |date=1992年5月(再) |isbn=978-4789000284 }}</ref>。そして、マロニーのコラムは[[ノースカロライナ州立大学]]で教材としても用いられていた。
 
コラムの内容はマロニーの4人の子供たちや日本での隣人、親交のあった会社経営者や同僚、警察官それぞれのエピソードや、社説、会社経営のための手腕を説いた{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。なお、当時マロニー一家は日本のプロ野球球団である[[読売ジャイアンツ]]のマネージャー<!-- ◆原文ママ、球団経営者かどうかはっきりしない書かれ方 -->および現役引退した[[長嶋茂雄]]宅の隣に住んでおり、マロニーはこれらの隣人たちのエピソードをコラムの題材として利用していた{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。
 
=== アメリカ帰国後 ===
1995年よりアメリカに帰国し、[[フロリダ州]]{{仮リンク|ホームズビーチ (フロリダ州)|en|Holmes Beach, Florida|label=ホームズビーチ}}の市長として5年間の任期を務めた。2005年に再選権を失った後、マロニーは再びユーモアに富んだコラムを書き、それは地元の新聞に月2回のコラムとして掲載された。
 
2007年9月3日、癌により79歳没{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。残されたマロニーの家族は58歳の妻サラ、4人の子と12人の孫だった{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。
 
;== マロニーのユーモアの一例 ==
{{引用
|text1=すべての外国人は学校を中退して、毎月日本の授業に費やしていたすべてのお金を「言語問題基金に対するマロニーの最終解決策」にお金を送ってください。基金はそのお金を使って日本人に英語を教えます。そして、あなたには自由時間があるので、あなたは英語教師として基金に自分自身を雇ってもらうことができます。