「ドン・マローニ (作家)」の版間の差分
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== 来歴 ==
=== 日本赴任時代 ===
1970年、マロニーは当時[[クリーブランド (オハイオ州)|オハイオ州クリーブランド]]に所在していたハリスコーポレーションが日本市場への参入を試みるため、[[日本]]の[[東京都]]に国外赴任した。このとき、マロ
日本での起業のきっかけは日本車がアメリカ車を席巻した出来事によってインスピレーションを得たため、とマロニーは
また、マロニーは、
コラムの内容はマロニーの4人の子供たちや日本での隣人、親交のあった会社経営者や同僚、警察官それぞれのエピソードや、社説、会社経営のための手腕を説いた{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。なお、当時マロニー一家は日本のプロ野球球団である[[読売ジャイアンツ]]のマネージャー<!-- ◆原文ママ、球団経営者かどうかはっきりしない書かれ方 -->および現役引退した[[長嶋茂雄]]宅の隣に住んでおり、マロニーはこれらの隣人たちのエピソードをコラムの題材として利用していた{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。
=== アメリカ帰国後 ===
1995年よりアメリカに帰国し、[[フロリダ州]]{{仮リンク|ホームズビーチ (フロリダ州)|en|Holmes Beach, Florida|label=ホームズビーチ}}の市長として5年間の任期を務めた。2005年に再選権を失った後、マロニーは再びユーモアに富んだコラムを書き、それは地元の新聞に月2回のコラムとして掲載された。
2007年9月3日、癌により79歳没{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。残されたマロニーの家族は58歳の妻サラ、4人の子と12人の孫だった{{Sfn|Tokyo Weekender, 2002}}。
{{引用
|text1=すべての外国人は学校を中退して、毎月日本の授業に費やしていたすべてのお金を「言語問題基金に対するマロニーの最終解決策」にお金を送ってください。基金はそのお金を使って日本人に英語を教えます。そして、あなたには自由時間があるので、あなたは英語教師として基金に自分自身を雇ってもらうことができます。
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