メインメニューを開く

差分

反対同盟代表の戸村はもともと平和主義者であったが、自らも負傷したこの事件で方針を転換し、[[国家権力]]に対抗するための暴力を肯定する[[扇動|アジテーション]]を行うようになる<ref name=":3" /><ref name=":1" /><ref>[[成田デモ事件#伊藤睦|伊藤睦(2017)]]17-22頁。</ref>。
 
1967年10月10日の測量クイ打ち阻止闘争で、それまで反対運動を支援していた[[日本共産党]]が離脱し、反対同盟は完全装備の機動隊にあっけなく排除されていた。同年12月15日に反対同盟は共産党を追放しとはいえ{{refnest|group=注|日本共産党と新左翼は対立関係にある<ref>{{Cite web|title=ニセ「左翼」への「泳がせ政策」とは?|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-21/20060921faq12_01_0.html|date=2006-09-21|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2019-03-21}}</ref><ref>{{Cite web|title=中核・革マルは共産党の分派なの?|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-06-14/20060614faq12_01_0.html|date=2006-06-14|website=www.jcp.or.jp|accessdate=2019-03-21}}</ref><ref>{{Cite web|title=【高木桂一の『ここだけ』の話】共産党「赤旗」に、はためく“敵対”革マルの真っ赤な旗|url=https://www.sankei.com/politics/news/130224/plt1302240018-n1.html|website=産経ニュース|date=2013-02-24|accessdate=2019-03-21|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。}}「暴力学生」との共闘については反対同盟幹部らからも当初慎重論が出されていたが、打ちひしがれていた反対派農民らは機動隊に立ち向かい渡り合うデモ隊の姿に心を動かされ、学生らを部落に迎え入れた。事件後、反対同盟は三派全学連の支援を全面的に受けいれ、これ以降血を血で争う実力闘争が継続した<ref name=":2" /><ref name=":3">[[#隅谷三喜男|隅谷三喜男(1996)]]21-26頁。</ref>。
 
== 参考文献 ==
8,804

回編集