「レオ1世 (東ローマ皇帝)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
28行目:
| サイン =
}}
'''レオ1世'''(Leo I., [[400年]] - [[474年]][[1月18日]])は、[[東ローマ帝国]][[レオ朝]]の初代[[皇帝]](在位:[[457年]] - 474年)。「トラキア人のレオ」と呼ばれた。'''レオ大帝'''とも呼ばれる<ref name="松原2010LeoI">[[#松原2010|松原2010]]、[レオー(ン)1世]。 </ref><ref name="ギボン5p340">[[エドワード・ギボン]]『[[ローマ帝国衰亡史]]』5巻、岩波書店、村山勇三(訳)、1954年、p.263。</ref>
 
== 生涯 ==
[[トラキア]]生まれで[[トラキア人]]<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref>の帝国軍人であったが、東ローマ皇[[マルキアヌス]]が男児無くして没した後、帝国の[[ゲルマン人]]軍事長官であった{{仮リンク|アスパル|en|Aspar}}に支持よって皇帝として擁立された。このような即位の経緯から、治世前期のレオ1世はアスパルとその息子[[アルダブリウス]]の傀儡にすぎなかった。しかし471年、{{仮リンク|イサウリア族|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長タラシコデッサ(後の皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]])の力を借りてアスパル父子を打倒し、皇帝としての地を確固たものとなっのである
 
レオ1世はローマ帝国の共同統治者として[[西ローマ帝国]]での主導権をも望み、[[467年]]には[[アンテミウス]]を、[[474年]]には[[ユリウス・ネポス]]を西ローマ皇帝と宣言して西ローマ帝国へ送り込み、自らが任命したアンテミウスとユリウス・ネポス以外の西ローマ皇帝を正式な皇帝とは認めなかった<ref name="松原2010LeoI" />。こうした介入の結果、西ローマ帝国は東ローマ皇帝の介入から決別するべく、レオ1世の死の2年後の[[476年]]に西ローマ皇帝の地位の廃止を宣言した。
このような即位の経緯から、治世前期のレオ1世はアスパルとその息子[[アルダブリウス]]の傀儡にすぎなかった。しかし471年、{{仮リンク|イサウリア族|de|Isaurier|hu|Iszauriaiak|nl|Isauriërs}}の族長タラシコデッサ(後の皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]])の力を借りてアスパル父子を打倒し、皇帝としての地位を確固たるものとした。
 
対外的には、[[ヴァンダル族]]を討伐するため468年に義弟[[バシリスクス]]を指揮官として西ローマ帝国との合同で大規模な艦隊を派遣したが、船団の半数を失う大敗を喫している。この敗戦以降、東ローマ帝国の海岸はヴァンダル族の襲撃に悩まされることになり、レオ1世はヴァンダル族と講話するために多額の賠償金を支払うこととなった。
 
474年1月18日、73歳で死亡した。
 
レオ1世は、皇帝就任に際して[[コンスタンティノープル総主教]]によって戴冠された初めてのローマ皇帝であると考えられている<ref name="松原2010LeoI" /><ref name="ギボン5p340" /><ref>レオ1世に先だってマルキアヌスが先例であったとする説もある。</ref>。総主教による戴冠は東ローマ帝国における皇帝就任の伝統となり、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった<ref name="松原2010LeoI" />。この聖職者による皇帝戴冠という東ローマ帝国の風習は、後に[[カール大帝]]や[[オットー1世]]の戴冠を経てローマ帝国の西方領土にも浸透することになる。
 
また、彼は法律を[[ラテン語]]ではなく[[ギリシャ語]]で制定した最初のローマ皇帝ともされる。
 
== 脚注 ==
40 ⟶ 48行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=松原國師|year=2010|title=西洋古典学事典|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876989256|ref=松原2010}}
 
== 関連項目 ==