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'''ワシリー・カンディンスキー'''({{lang|ru|Василий Васильевич Кандинский}}、Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky<ref>ヴァシリー・カンディンスキー、カディンスキー、「カンジンスキイ」と書くほうがロシア語の発音に近いが、この表記は日本では一般的ではない。</ref>、[[1866年]][[12月4日]]([[ユリウス暦]])/[[12月16日]]([[グレゴリオ暦]]) - [[1944年]][[12月13日]])は、[[ロシア]]出身の[[画家]]であり、[[美術]]理論家であった。一般に[[抽象絵画]]の創始者とされる。[[ドイツ]]及び[[フランス]]でも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。
 
== 略歴 ==
カンディンスキーロシアの[[モスクワ]]に生まれ子供時代を[[オデッサ]]で過ごした。[[1886年]]から[[1892年]]まで[[モスクワ大学]]で法律と政治経済を学ぶ。
 
[[1896年]]にドイツの[[ミュンヘン]]で絵の勉強を始め、[[象徴主義]]の大家[[フランツ・フォン・シュトゥック]]に師事する。[[1902年]][[ベルリン]]の分離派展に出品し、[[1904年]]からは[[パリ]]のサロン・ドートンヌにも出品している。[[1909年]]には[[新ミュンヘン美術家協会]]会長となるが、[[1911年]]にはドイツの[[フランツ・マルク]]とともに脱退して「[[青騎士]]」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/カンディンスキー-49298 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-02 }}</ref>。その間の[[1910年]]に最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記している。カンディンスキーの代表作でもある『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。
 
[[ロシア革命|革命]]後、カンディンスキーは[[1918年]]にモスクワに戻った。当時のソ連では[[前衛美術|前衛芸術]]は[[ウラジーミル・レーニン]]によって「革命的」として認められており、カンディンスキーは[[政治委員]]などを務めた。しかし、[[ヨシフ・スターリン]]が台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、スターリンが共産党書記長に就く直前の[[1921年]]に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。
 
カンディンスキーは[[1922年]]からは[[バウハウス]]で教官を務め、[[1933年]]に[[ナチス・ドイツ]]によってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。[[1941年]]にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、カンディンスキーも彼は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への移住を拒否し続け1944年、パリ郊外に位置する[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]でその生涯を閉じた。なお、カンディンスキーは[[1928年]]にはドイツ国籍、[[1939年]]にはフランス国籍を取得している。
 
== 活動・評価 ==
[[オランダ]]の[[ピエト・モンドリアン]]や[[ウクライナ]]の[[カジミール・マレーヴィチ]]とともに、カンディンスキーも彼は[[抽象絵画]]の先駆者として位置づけられている。カンディンスキーはまた多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。
 
ナチス占領下のフランスでは作品の展示を禁止されたり、カンディンスキーについて論じることを禁止されるなど不遇のまま亡くなった。[[1967年]]に未亡人のニーナが晩年のカンディンスキーの元を支えた事で[[レジオンドヌール勲章]]を受け、完全に復権した。
 
== 作品 ==