「ガロア理論」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[ファイル:E. Galois Letter.jpg|thumb|オーギュスト・シュヴァリエ宛のガロアの手紙の最終頁(1832年5月29日)]]
ガロアは[[1832年]]の(死の原因となる)決闘の前日に、友人の[[オーギュスト・シュヴァリエ]]に宛てて、ガロア理論と[[楕円関数論]]に関する数学的業績を要約した手紙を書いた。その後、[[1846年]]になって、[[リウヴィル]]がガロアの功績を知って自分の雑誌にガロアの論文集を掲載した<ref>{{Cite journal|last=Galois|first=Évariste|year=1846|title=Œuvres mathématiques d'Évariste Galois|journal=Journal de mathématiques pures et appliquées|issue=Tome XI|pages=381-444|publisher=|url=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k290623/f5.image.langFR|issn=0021-7824}}</ref>ことで、多くの数学者が刺激を受けることになった。[[リヒャルト・デーデキント|デデキント]]は1855年から1857年にかけて[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]でガロア理論に関する最初の講義をおこなった<ref name="satake">[[佐武一郎]]「解説「ガロア理論」について」、[[#アルティン2010|アルティン (2010)]] p. 215</ref>。そのとき、デデキントはガロアの理論を「ガロア理論」({{Lang-de-short|Galois-Theorie}})と名づけた<ref>[[#Scharlau1981|Scharlau (1981)]]</ref>。早い時期に、ベッチ、[[レオポルト・クロネッカー|クロネッカー]]、[[アーサー・ケイリー|ケイリー]]、セレは群概念を厳密化していった。[[カミーユ・ジョルダン]]によって1870年に発表された『置換と代数方程式論』 (''Traité des substitutions et des équations algebraique'') はガロア理論に関する包括的な解説として最も古いものである。1871年にデデキントは四則演算で閉じた(数の)集合を「[[可換体|体]]」({{Lang-de-short|Körper}})と名づけた。また、[[リヒャルト・デーデキント|デデキント]]と[[{{ill2|ハインリヒ・マルティン・ヴェーバー|en|Heinrich Martin Weber|label=ウェーバー]]}}は1882年に[[代数関数体]]と[[リーマン面]]の代数的理論を構築した<ref name="satake" />。
 
[[ソフス・リー]]によって導入された[[リー群]]はガロア理論の類似を微分方程式に対して確立しようという試みの中から生まれたとされている。その後、<!-- 年頃に -->[[エミール・アルティン]]によってガロア理論の[[線型代数学]]的な定式化が追求された<ref>[[#アルティン1974|アルティン (1974)]]</ref><ref>[[#アルティン2010|アルティン (2010)]]</ref>。[[アレクサンドル・グロタンディーク|アレクサンダー・グロタンディーク]]によって[[圏論]]的な定式化と[[数論幾何]]・[[代数幾何]]への応用が押し進められた。<!-- テンソル圏...TBD -->
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<!--(リクエスト:歴史の記述について、アーベルの巾根による解法の不可能性の発見とアーベル方程式の解法理論、その前駆となったガウスの円周等分方程式の解法理論についても、若干の記述を加えて欲しい。)-->
 
== 脚注 ==
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