「大坂の陣」の版間の差分

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6月頃にイギリスより購入した[[カルバリン砲]]4門、[[セーカー砲]]1門や7日前に[[兵庫港|兵庫]]に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門([[半カノン砲]]に比例)<ref>{{Cite book|和書|author=宇田川武久|authorlink=宇田川武久|title=真説鉄砲伝来|publisher=平凡社|year=2006}}</ref>も含まれていると思われる。
 
豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する<ref>大日本史料 12編16冊754頁</ref>。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)<ref>{{Cite journal|和書|author=田端泰子|title=「大阪冬・夏の陣」に収斂する淀殿の役割|journal=」、『京都橘女子大学女性歴史文化研究所紀要|isuue=11号|year=2003}}、2003年</ref>。
大砲も使い、塙直之が[[蜂須賀至鎮]]に夜襲をしかけ戦果をあげた([[本町橋の夜戦|本町橋の夜襲戦]])。
 
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徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり<ref group="注釈">ただし、11月28日に[[小堀政一]]に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる</ref>、真[[冬]]の陣でもあったため、[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]より[[織田長益|織田有楽斎]]を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8・12日にも有楽斎と治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。
 
豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・[[陣屋]]などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、あまりに凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。
 
[[朝廷]]から[[後陽成天皇|後陽成上皇]]の命により、17日に[[武家伝奏]]の[[広橋兼勝]]と[[三条西実条]]を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた{{Efn|この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される[[禁中並公家諸法度]]の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる{{Sfn|橋本|2002|pp=541-543}}。}}。
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和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。
 
[[城割]](城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明、本多忠政、[[本多康紀]]を普請奉行とし、家康の名代である本多正純、[[成瀬正成]]、[[安藤直次]]の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も徹底的に破壊されている。
 
幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる{{Sfn|笠谷|2007|pp=239-241}}。