「コンスタンティヌス朝」の版間の差分

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== 歴史 ==
コンスタンティヌス1世から[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]まで、共同統治による同時即位を含めて3代5人(コンスタンティヌス1世の父[[コンスタンティウス・クロルス]]を含めると4代6人)の帝を出した。ユリアヌスが[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]への遠征の陣中で没すると、後継者が定まっていなかったため、兵士たちはユリアヌス配下の将軍[[ヨウィアヌス|フラウィウス・ヨウィアヌス]]を皇帝として擁立し、コンスタンティヌス朝によるローマ帝国支配は終焉を迎えた。ただし、コンスタンティウス1世とコンスタンティヌス1世の血筋自体は後世に存続しており、[[東ローマ帝国]]の[[アナスタシウス1世]]も子孫の一人である。アナスタシウス1世の姪エイレーネーはコンスタンティヌス朝後継王朝である[[ウァレンティニアヌス朝]]と[[テオドシウス朝]]、ローマ帝国末期の有力貴族アニキア家の血を引くアニキウス・オリブリオス・ミノール([[西ローマ帝国]]の[[ウァレンティニアヌス3世]]の曽孫でもある)と結婚。なお、下記系図にもあるが、[[ウァレンティニアヌス朝]]の創始者[[ウァレンティニアヌス1世]]はコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスの孫娘ユスティナを後妻としており、夫妻の間に生まれた娘ガッラが[[テオドシウス朝]]の創始者[[テオドシウス1世]]の後妻となり、[[ガッラ・プラキディア]]が生まれており、ガッラ・プラキディアはウァレンティニアヌス3世の母である。
 
以上の様に、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝、テオドシウス朝の3王朝は縁戚関係や婚姻関係を結び、その血筋は少なくとも[[6世紀]]の終わりから[[7世紀]]の始めまで[[コンスタンティノープル]]のローマ貴族であり続けた。
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== コンスタンティヌス朝皇帝一覧 ==
*[[コンスタンティウス・クロルス]](305年 - 306年) 西方正帝:東方正帝[[ガレリウス]]の共同皇帝
*[[コンスタンティヌス1世]]([[307312年]] - [[337年]])
**共同皇帝[[クリスプス]](?[[317年]] - [[326年]])
**共同皇帝[[ダルマティウコン (副帝)|ダルマタンティ2世]]([[335(317]] - 337年)
**共同皇帝[[ニバリアヌタンティウス2世]](335([[324]] - 337年)
**共同皇帝[[コンスタンティウス・ガッル1世]]([[352333年]] - [[354337]]
**副帝[[ダルマティウス (副帝)|ダルマティウス]]([[335年]] - 337年)
**[[ポントス|ポントゥス]]王[[ハンニバリアヌス]](335年 - 337年)
*[[コンスタンティヌス2世]]([[337年]] - [[340年]])
*[[コンスタンティウス2世]]([[337年]] - [[361年]])
**共同皇帝[[コンスタンティウス・ガッル2世]]([[337352年]] - [[340354年]])
**共同皇帝[[コンスタンス1世]]([[337年]] - [[350年]])
**共同皇帝[[コンスタンティウス・ガッルス]]([[352年]] - [[354年]])
*[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス]]([[361年]] - [[363年]]) 「背教者」