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[[File:Nakayama Gishu.JPG|thumb|200px|1955年]]
 
'''中山 義秀'''(なかやま ぎしゅう、[[1900年]][[10月5日]] - [[1969年]][[8月19日]]<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.city.narita.chiba.jp/content/000077364.pdf|title=成田ゆかりの人々|accessdate=2019-03-23|publisher=成田市|format=PDF}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=中山義秀(なかやまぎしゅう)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E7%A7%80-107911|website=コトバンク|accessdate=2019-03-23}}</ref>)は、[[日本]]の[[小説家]]。本名、'''議秀'''(よしひで)。
 
== 来歴・人物 ==
[[福島県]][[西白河郡]][[大屋村 (福島県)|大屋村]](現[[白河市]])生まれ。旧制安積中学(現[[福島県立安積高等学校]])、[[早稲田大学]][[文学部]]英文科卒業。
 
=== 生涯 ===
[[早稲田大学]]在学中に、[[横光利一]]、[[富ノ澤麟太郎]]、[[小島勗]]らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。卒業後、中学英語教師のかたわら著作業を始め、妻の死など苦難の後、著作集『電光』を刊行。[[1938年]]、[[岩瀬郡]][[長沼町 (福島県)|長沼町]](現[[須賀川市]])を舞台にした『厚物咲』で第7回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]。翌年『碑』を発表し、文壇での評価を高める。[[1942年]]に[[真杉静枝]]と再婚したが、[[1946年]]に離婚している。1969年8月19日、[[食道癌]]のため[[虎の門病院]]で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)245頁</ref>。
[[福島県]][[西白河郡]][[大屋村 (福島県)|大屋村]](現[[白河市]])生まれ。旧制安積中学(現[[福島県立安積高等学校]])、[[早稲田大学]][[文学部]]英文科卒業<ref name=":0" />
 
1918年に旧制安積中学(現・[[福島県立安積高等学校]])を卒業、[[1923年]]に[[早稲田大学]][[文学部]]英文科卒業<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
[[平家物語]]を現代語訳しており(日本古典文庫13・[[河出書房新社]])、その訳文(書き出しと那須与一の件)は中学校用国語教科書([[光村図書]]中学2年)で長年使用され続けている。
 
[[早稲田大学]]在学中に、[[横光利一]]、[[富ノ澤麟太郎]]、[[小島勗]]らと同人誌『塔』を創刊。小説『穴』を発表<ref name=":0" />。また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。
戦後は時代小説を書き、『新剣豪伝』『信夫の鷹』など。1964年、[[明智光秀]]を描いた『咲庵』で[[野間文芸賞]]受賞。がんに倒れ、『芭蕉庵桃青』が絶筆となった。死の前日に、[[キリスト教]][[洗礼]]を受けた。
 
卒業後、三重県立津中学校(現・[[三重県立津高等学校|津高等学校]])で英語教師を務めるが校長とトラブルを起こし、1925年に辞職。親友のつてで千葉県の成田中学校(現・[[成田高等学校・付属中学校|成田高等学校]])に英語教師として赴任、[[印旛郡]][[遠山村 (千葉県)|遠山村]]東和田に居を構え、教職のかたわら著作業を続けた<ref name=":0" />。
 
しかし、校長排斥運動に連座して職を追われ、妻の死など苦難の後、1936年に最初の小説集『電光』を刊行、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]に認められる<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
 
[[1938年]]、[[岩瀬郡]][[長沼町 (福島県)|長沼町]](現[[須賀川市]])を舞台にした『厚物咲』で第7回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]<ref name=":1" />。翌年、幕末[[天狗党の乱|天狗党]]に加わった祖父をモデルに『碑』を発表し、文壇での評価を高める<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
 
[[1942年]]に[[真杉静枝]]と再婚したが、[[1946年]]に離婚している。
 
1948年に戦中の取材を元に『テニヤンの末日』 を発表したほか、『新剣豪伝』『信夫の鷹』 、[[明智光秀]]を描いた『咲庵 』 などの[[歴史小説]]や、兄事した横光の生を描く『台上の月』 などを書いた<ref name=":1" />。1964年、『咲庵』で[[野間文芸賞]]受賞。[[1966年]][[日本芸術院賞]]受賞<ref name=":1" />。
 
1969年8月19日、[[食道癌]]のため[[虎の門病院]]で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)245頁</ref>。『芭蕉庵桃青』が絶筆となった。
 
=== 死後 ===
1971年に[[成田山新勝寺]]の境内にある成田山公園に教え子らが文学碑を建てた<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|title=成田山公園|url=http://daihonnzann-naritasann.jimdo.com/成田山公園/|website=成田山新勝寺|accessdate=2019-03-23|publisher=}}</ref>。
 
1993年には[[中山義秀記念文学館]]がつくられ、優れた歴史小説を対象にした、[[中山義秀文学賞]]が創設された。全集は『中山義秀全集』(全9巻)が[[新潮社]]に、『新編中山義秀自選歴史小説集』(全10巻)が宝文館出版にある。
 
== 人物 ==
早稲田大学在学中には社会学や労働問題に関心を持ち[[カール・マルクス]]の研究を行った<ref name=":0" />。
 
[[三里塚芝山連合空港反対同盟]]の代表として[[三里塚闘争]]を闘った[[戸村一作]]は成田中学校教師時代の中山教え子であり、その影響を受けたとされる<ref>{{Cite web|url=http://www.a-quad.jp/exhibition/061/p11.html|title=三里塚教会を守ったクリスチャン 戸村一作|accessdate=2019-03-23|publisher=ギャラリーエークワッド}}</ref>。
 
[[平家物語]]を現代語訳しており(日本古典文庫13・[[河出書房新社]])、その訳文(書き出しと那須与一の件)は中学校用国語教科書([[光村図書]]中学2年)で長年使用され続けている。
 
死の前日に、[[キリスト教]][[洗礼]]を受けた。
 
== 受賞歴 ==
 
== 著書 ==
{{columns-list|2|
*『電光』作品社 1936
*『'''厚物咲'''』小山書店 1938 のち新潮文庫、「厚物咲・碑」角川文庫 
*『'''新編中山義秀自選歴史小説集'''』全10巻 宝文館出版 1996-97
*『中山義秀集』リブリオ出版 ポピュラー時代小説 1998
}}
 
==脚注==
* [http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/view.rbz?cd=2206 中山義秀記念文学館(白河市)]
* [http://gishuu.exblog.jp/ 中山義秀記念文学館]
*[https://www.city.narita.chiba.jp/content/000077364.pdf 成田ゆかりの人々 中村義秀](成田市)
 
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{{芥川賞|第7回}}
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