「松前慶広」の版間の差分

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[[慶長]]3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]と誼を通じた。[[慶長]]4年([[1599年]])、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、[[アイヌ語]]「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。慶長5年(1600年)には家督を長男・[[松前盛広|盛広]]に譲り、盛広も従五位下・若狭守を賜ったが、その後も慶広が政務を司った。慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得た。慶長9年([[1604年]])、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とする{{Sfn|高倉|1980|pp=32-33}}が、正式な家格は[[交代寄合]]である。
 
慶長14年(1609年)に[[猪熊事件]]が起きて[[近衛府|左近衛少将]]・[[花山院忠長]]が蝦夷・[[上ノ国町|上ノ国]]に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家によしみを得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めるとともに、松前に京都の公家文化をもたらした{{Sfn|高倉|1980|p=33}}。
 
慶長15年([[1610年]])と慶長17年([[1612年]])の二回にわたり、徳川家康に[[海狗腎]]([[オットセイ]])を献上している(『当代記』)<ref>{{Cite journal|和書|author=宮本義己|authorlink=宮本義己|title=徳川家康公と医学||journal=大日光|issue=66号|year=1995}}</ref><ref>{{Citation|和書|author=宮本義己|chapter=徳川家康と本草学|editor=笠谷和比古|title=徳川家康―その政治と文化・芸能―|publisher=宮帯出版社|year=2016}}</ref>。