「エミール・ザトペック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
19行目:
その後、地元のアスレチッククラブに所属し、[[パーヴォ・ヌルミ]]をモデルとして競技を続けた。1943年に2000m、3000m、5000mの当時のチェコスロバキア記録を更新。[[第二次世界大戦]]ではチェコスロバキア軍に入るも、練習を優先することを許され、1946年に[[ヨーロッパ陸上競技選手権大会|ヨーロッパ選手権]]でチェコスロバキアのナショナルチームの一員に選ばれ、5000mで14:25.8を出しチェコスロバキア記録を更新する。
 
1948年[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]](1948年)の[[10000メートル競走|10000m]]、[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキオリンピック]](1952年)の[[5000メートル競走|5000m]]・10000m・[[マラソン]]で金メダルを獲得した。この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。その後、有望な若手ランナーに自身が獲得した金メダルを渡し、彼の思いを託した
 
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『'''人間機関車'''』と称された。また、[[インターバルトレーニング]]の創始者としても知られている。