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「~に訴える論証」を「論点のすり替え」の小見出しにした
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わら人形、わら人形論法、架空の論法ともいう。Aが主張していないことを自分の都合の良いように表現しなおし、さも主張しているかのように取り上げ論破することでAを論破したかのように見せかける。[[燻製ニシンの虚偽]] (red herring)。論理性が未熟なため相手の主張を誤解している場合は誤謬であるが、意図的に歪曲している場合は詭弁となる。議論が過熱し論点が見えにくくなると起きやすい。社会生活上よく見られる。
 
==== 同情論証 (ad misericordiam) ====
{{see also|同情論証}}
 
* A「そんなふうに言うもんじゃない。B君が'''かわいそうだよ'''」
 
Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。'''故に'''XはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。同時に、かわいそうであるか、そうでないかという論点へのすりかえでもある。
 
==== 対人論証 (ad hominem abusive) ====
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Aに対するBの発言は、特定の人間が置かれている『状況』を論拠としている。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、「C君のお父さんはD社に勤めている。'''故に'''D社のデジタルカメラは買わない方がいい商品である」は演繹にならない。このように、「その人がそんな事を言うのは、そういう状況に置かれているからに過ぎない(故に信用に値しない)」というタイプの対人論証を指して、「状況対人論証」と呼ぶ。
 
==== 自然主義の誤謬 (Naturalistic fallacy) ====
{{Main|自然主義の誤謬}}
 
* A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だから'''これからもそうするべきだ'''」
* B「Aさんはホットケーキが'''好きだ'''。'''だから'''ホットケーキを食べさせてあげる'''べきだ'''」
 
Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYす'''べき'''である」という形式の文)の結論を導いている。この形式を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と言う。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」<!--「ウィキペディアのこの記事は内容がずっと間違ったままだった。故にこれからもその内容を維持すべきである」--><!--「この記事の内容に関して」無用の衝撃と混乱を招くので-->という主張と論理構造が等しい。「である」という観察事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張は[[ヒュームの法則]]といい、この種の誤謬はIs-ought problem(である-べきであるの混同)とも言う。また[[帰納法]]の誤謬を含めた広義の意味では「である」という観察事実から「であろう(予測)」という指針を引き出すことも出来ない([[帰納法]]参照)。
 
===== 道徳主義の誤謬 (Moralistic fallacy) =====
 
* A「人間は皆生まれながらに平等であるべきだ。だから能力が遺伝するという'''研究結果は間違っている'''。」
 
規範文の前提から記述文の結論を導く場合に生じる誤謬。道徳律は定言的命法により記述されるため、その定言命題が真の場合は得られる結論に倫理的強制力をもつ構造がある。Aの主張が「遺伝に関する研究を行う'''べきではない'''」である場合、これは倫理上の課題として妥当な推論である可能性がある。しかし「研究結果」そのものを否定している場合、その結果が事実であったとすれば、規範により観察事実を曲げてしまっている。この主張は「人を殺してはいけない。だから殺人事件はおこらない(人は殺されない)」と論理構造が等しい。倫理的な指針を主張することで「危険な知識」の収集を規制しようと意図する場合見られる。アメリカの[[微生物学]]者[[バーナード・デイビス]]が自然主義の誤謬をもじり命名した。Is-ought problem。
 
===== 同情論証 (ad misericordiam) =====
{{see also|同情論証}}
 
* A「そんなふうに言うもんじゃない。B君が'''かわいそうだよ'''」
 
Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。'''故に'''XはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。同時に、かわいそうであるか、そうでないかという論点へのすりかえでもある。
 
==== 伝統に訴える論証 (Appeal to tradition) ====
{{Main|伝統に訴える論証}}
 
* A「ぜいたくはだめだよ。'''昔から'''節約は美徳とされていたからね」
 
Aの発言は、「過去から使われている意見は正しい」という形式の推論。不測の事態の発生を防ぐという[[先例|先例主義]]という考え方もあるが、「過去にその意見は正しいから採用されたのか」「関係する状況は現在と過去で変わっていないか」の二点が立証されないと根拠にはならない。
 
==== 新しさに訴える論証 (Appeal to novelty) ====
{{Main|新しさに訴える論証}}
 
* A「そのやり方は'''もう古いよ。最新の方法を使うべきだ'''」
 
伝統に訴える論証とは逆に、過去と現在では状況が変わっているとすることを前提にした推論。科学の発展や流行の推移、社会事情の変化などで説得力を持たせようとしているが、新しいだけでは根拠にはならない。
 
==== 権威論証 (ad verecundiam) ====
{{Main|権威に訴える論証|ハロー効果}}
 
* A「人間はBを敬うべきだ。'''哲学者のCもそう言っているだろう'''」
 
Aの発言は「[[専門家]](または[[有名人|著名人]])も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。[[権威に訴える論証]]とも。『専門家』や『著名人』は『常に[[真理]]を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
 
=== 論点回避 (Begging the question) ===
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Bは第一命題と第二命題に論理上の関連がない場合、第一命題について「このままでは良くない」と結論することは第二命題には何ら影響はない(第二命題に対しても同様)。Dは「(あなたが)この商品を見ること(をとめることは誰も出来ない)(第一命題)」と「あなたが(この商品で)美しくなることをとめることは誰にもできない(第二命題:おべっか (buttering-up))」が錯綜した構造になっており、これに多重尋問を行うことで第一命題・第二命題とも否定することができない構造となっている(商品に注目させる効果)。
 
=== 自然主義の誤謬 (Naturalistic fallacy) ===
{{Main|自然主義の誤謬}}
* A「私達はこれまでずっとこの土地で協力し合って暮らしてきた。だから'''これからもそうするべきだ'''」
* B「Aさんはホットケーキが'''好きだ'''。'''だから'''ホットケーキを食べさせてあげる'''べきだ'''」
 
Aの発言は、記述文(「XはYである」という形式の文)の前提から規範文(「XはYす'''べき'''である」という形式の文)の結論を導いている。この形式を「自然主義の誤謬」(自然主義的誤謬)と言う。この推論はあらゆる場合に間違い(偽)というわけではないが、あらゆる場合に正しい(真)わけでもなく、この種の論法が論理的な推論法としてもし有効であるなら、あらゆる改革や変更は許容されなくなる。Aの発言は「人類は多くの戦争と殺戮を繰り返してきた。だからこれからもそうするべきだ」<!--「ウィキペディアのこの記事は内容がずっと間違ったままだった。故にこれからもその内容を維持すべきである」--><!--「この記事の内容に関して」無用の衝撃と混乱を招くので-->という主張と論理構造が等しい。「である」という観察事実から「べきである」という指針を引き出すことはできないとの主張は[[ヒュームの法則]]といい、この種の誤謬はIs-ought problem(である-べきであるの混同)とも言う。また[[帰納法]]の誤謬を含めた広義の意味では「である」という観察事実から「であろう(予測)」という指針を引き出すことも出来ない([[帰納法]]参照)。
 
==== 道徳主義の誤謬 (Moralistic fallacy) ====
* A「人間は皆生まれながらに平等であるべきだ。だから能力が遺伝するという'''研究結果は間違っている'''。」
 
規範文の前提から記述文の結論を導く場合に生じる誤謬。道徳律は定言的命法により記述されるため、その定言命題が真の場合は得られる結論に倫理的強制力をもつ構造がある。Aの主張が「遺伝に関する研究を行う'''べきではない'''」である場合、これは倫理上の課題として妥当な推論である可能性がある。しかし「研究結果」そのものを否定している場合、その結果が事実であったとすれば、規範により観察事実を曲げてしまっている。この主張は「人を殺してはいけない。だから殺人事件はおこらない(人は殺されない)」と論理構造が等しい。倫理的な指針を主張することで「危険な知識」の収集を規制しようと意図する場合見られる。アメリカの[[微生物学]]者[[バーナード・デイビス]]が自然主義の誤謬をもじり命名した。Is-ought problem。
 
=== 伝統に訴える論証 (Appeal to tradition) ===
{{Main|伝統に訴える論証}}
* A「ぜいたくはだめだよ。'''昔から'''節約は美徳とされていたからね」
 
Aの発言は、「過去から使われている意見は正しい」という形式の推論。不測の事態の発生を防ぐという[[先例|先例主義]]という考え方もあるが、「過去にその意見は正しいから採用されたのか」「関係する状況は現在と過去で変わっていないか」の二点が立証されないと根拠にはならない。
 
==== 新しさに訴える論証 (Appeal to novelty) ====
{{Main|新しさに訴える論証}}
 
* A「そのやり方は'''もう古いよ。最新の方法を使うべきだ'''」
 
伝統に訴える論証とは逆に、過去と現在では状況が変わっているとすることを前提にした推論。科学の発展や流行の推移、社会事情の変化などで説得力を持たせようとしているが、新しいだけでは根拠にはならない。
 
=== 権威論証 (ad verecundiam) ===
{{Main|権威に訴える論証|ハロー効果}}
* A「人間はBを敬うべきだ。'''哲学者のCもそう言っているだろう'''」
 
Aの発言は「[[専門家]](または[[有名人|著名人]])も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。[[権威に訴える論証]]とも。『専門家』や『著名人』は『常に[[真理]]を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
 
== 詭弁とパラドックス ==