「文禄・慶長の役」の版間の差分

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明軍の兵糧供給は李氏朝鮮側が提供したため<ref group="注">米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している</ref>、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。
 
また日本軍の侵入が始まると、特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民衆は混乱に乗じて官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払った。また日本軍は義兵の抵抗に手を焼いたため、不穏分子とみられた住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うこともあった。戦功の証明として[[はなそぎ]]も行われたが<ref group=注>その後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られているが、はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体である。</ref>、これは慶長の役以後の不穏民衆を一揆と認識して討伐した際の話であり、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。以降、慶長の役においては鼻の数で戦功が計られ、老若男女を問わず非戦闘員も対象とされた。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに[[耳塚]]にて弔われた<ref name="shuuei11">熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社</ref>。
 
朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。