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{{Infobox Engineer
| 氏名 = パトリック・ヘッド
'''パトリック・ヘッド'''(''Patrick Head'' 、[[1945年]][[6月5日]] - )は[[イギリス]]・[[ファンボロー]]出身の[[ウィリアムズF1|ウィリアムズF1チーム]]共同創設者であり、同チームのエンジニアリング・ディレクターである。▼
| 各国語表記 = <small>Sir</small><br />Patrick Head
| 画像 =
| 画像のサイズ = 250px
| 画像の説明 =
| 国籍 = {{GBR}}
| 別名 =
| 市民権 =
| 出生名 =
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1945|6|5}}
| 出生地 = {{ENG}}<br />[[ハンプシャー州]]ファーンボロー
| 死没日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->
| 死没地 =
| 最終学歴 = [[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]
| 配偶者 =
| 両親 =
| 子供 =
| 専門分野 = 自動車エンジニア<br />[[カーデザイナー|レーシングカーデザイナー]]<br />[[フォーミュラ1|F1]]テクニカル・ディレクター
| 所属機関 =
| 勤務先 = [[ローラ・カーズ]](1970年 - 不明)<br />[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング]](1977年 - 2011年, 2019年 - )
| 雇用者 =
| プロジェクト =
| 設計 = ウィリアムズFWシリーズ F1マシン
| 成果 = F1 114勝<br />F1コンストラクターズ 9回
| 受賞歴 = 大英帝国爵位 Knight Bachelor
| 署名 =
}}
▲'''パトリック・ヘッド'''(''Sir Patrick Head'' 、[[1945年]][[6月5日]] - )は、[[イ
[[1977年]]から
== 初期の経歴 ==
パトリック・ヘッドは、父親が[[1950年代]]に[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の[[スポーツカー]]でレースに参加していたこともあり、生まれてすぐ[[モータースポーツ]]に囲まれて育ったと言える。そして[[ウエリントン]]・カレッジで学んだ後に[[イギリス海軍]]に入隊したが、すぐに軍隊が自らの天職とは言えないことを悟り、除隊して大学へと進学した。最初は[[バーミンガム
ヘッドは自動車製造業や技術企業を設立しようとする数多くの新プロジェクトに関わり、その間に[[フランク・ウィリアムズ]]と出会った。しかし、この分野でうまく成功を掴めなかったことに幻滅したヘッドは、モータースポーツを諦めて[[ボート]]製造へと転職した。
[[1976年]]、当時34歳だったフランク・ウィリアムズは自分自身のチームを立ち上げる機が熟したと考え、ヘッドを再びF1の世界へ引き戻すべく勧誘した。この時テクニカル・ディレクターの採用試験の面接で『1日12時間、週7日間でも働く意欲があるか?』というウィリアムズの質問に対してヘッドが『ありません。でもそんなに頑張らなければいけないのは、やり方が悪いからですよ』と答えた逸話がある。
一旦はうまく行かなかったものの、[[1977年]]2月8日にウィリアムズ70%、ヘッド30%の出資によってウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング社が設立された。
同シーズンにはウィリアムズは選手権で11ポイントを稼いでコンストラクターズランキング9位に食い込み、ここから上昇気流に乗り始めた。第4戦にはジョーンズがチームを初めて表彰台へと導いた。同年の[[イギリスグランプリ]]では[[クレイ・レガッツォーニ]]のドライブによって、その後100を超えることになる優勝の最初の1勝を挙げた。同シーズンでチームはさらに4勝を勝ち取り、ヘッドはグランプリにおけるデザイナーとしての名声を得た。
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== 苦戦と引退 ==
[[1997年]]にニューウェイが去ってから、ウィリアムズはしばしば力を使い果たしたように見え、シーズンに1、2勝程度しかできないことが続いた。
ヘッドのエンジニアリング・ディレクターへの異動は事実上の降格であり、また彼がもはやかつての栄光をチームにもたらすだけの力を持たないことをフランク・ウィリアムズがついに認めたという意味であると広く受け止められた。降格というよりは年齢によるセミリタイアという表現のほうが事実に近い。そしてチームが危機に陥った[[2006年]]には本格的に復帰している。
自動車メーカーの多くがF1チームの[[株式]]を取得する流れの中で、ヘッドが自分の所有分を[[BMW]]に売却したのではないかという観測が存在したが、これは誤り。ただ、2011年にウィリアムズが[[フランクフルト証券取引所]]に上場した際に、ヘッドも自らの所有する株式の一部を市場に放出しており、2015年現在の持株比率は10%まで低下している<ref>[http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/192473.html ウォルフ、ウィリアムズ株をさらに売却] - ESPN F1・2015年2月25日</ref>。▼
▲自動車メーカーの多くがF1チームの[[株式]]を取得する流れの中で、ヘッドが自分の所有分を[[BMW]]に売却したのではないかという観測が存在したが、これは誤り。ただ、[[2011年]]にウィリアムズが[[フランクフルト証券取引所]]に上場した際に、ヘッドも自らの所有する株式の一部を市場に放出しており、2015年現在の持株比率は10%まで低下している<ref>[http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/192473.html ウォルフ、ウィリアムズ株をさらに売却] - ESPN F1・2015年2月25日</ref>。
[[2011年]]末をもってチームの取締役ならびにエンジニアリング・ディレクターの職から退いたことが発表された<ref>{{cite news|url =http://fmotorsports.cocolog-nifty.com/f107/2012/01/f1-ca88.html|title =パトリック・ヘッド氏、ウィリアムズF1から勇退|date = 2012-01-01|accessdate = 2012-01-27}}</ref>。今後は関連会社のウィリアムズ・ハイブリッド・パワー・リミテッド社の役員に就任し、F1からは完全に離れた。
[[2015年]]、英王室より「Knight Bachelor」の称号を叙任。
{{F1|2019}}3月の開幕直後、深刻な低迷に陥っているウィリアムズF1の人員再編成に関するコンサルタント業務に従事することになり、8年ぶりにF1へ復帰した<ref>{{cite web|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-brings-back-co-founder-head-in-consultancy-role/4361174/ |title = パトリック・ヘッド、ウイリアムズに復帰。チーム再編のコンサルタントに就任 |publisher = motorsport.com |date = 2019-03-30 |accessdate = 2019-03-30}}</ref>。
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[[Category:イギリスの自動車技術者]]
[[Category:レーシングカー・デザイナー]]
[[Category:F1チームオーナー]]▼
[[Category:ロンドン大学出身の人物]]
[[Category:ラシュムア出身の人物]]
[[Category:1945年生]]
[[Category:存命人物]]
▲[[Category:F1チームオーナー]]
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