「源義時」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
20行目:
== 河内・石川源氏 ==
義時は、父の義家以来の河内源氏本拠地において、夢の
[[治承・寿永の乱|治承の源平の戦い]]の際、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃を受けたとされるが、このことについても源氏の棟梁となる事を望んだ石川氏が源氏の象徴である義家旧宅を勝手に占領しただけとの見方もある。派遣された平家方の侍大将大夫判官[[飯富季貞]]、摂津判官[[平盛澄]]の軍と源義基、源義兼らは洛外や石川源氏の本拠地である河内国石川庄で抗戦するが、大勢を覆すことはできず、一族の多くが討たれ、石川源氏の勢力は大きく衰退する。呼ばれる存在であったのかどうか疑わしい。
[[治承・寿永の乱|治承の源平の戦い]]の際、都に近い河内国に八幡太郎義家以来の源氏の残存勢力のあることを危険視した平清盛によって攻撃を受けたとされるが、このことについても源氏の棟梁となる事を望んだ石川氏が源氏の象徴である義家旧宅を勝手に占領しただけとの見方もある。派遣された平家方の侍大将大夫判官[[飯富季貞]]、摂津判官[[平盛澄]]の軍と源義基、源義兼らは洛外や石川源氏の本拠地である河内国石川庄で抗戦するが、大勢を覆すことはできず、一族の多くが討たれ、石川源氏の勢力は大きく衰退する。
37行目:
== 石川数正と石川氏 ==
源義時は別名石川五郎義時と称し石川氏を名乗り、後裔に[[石川数正]]がおります。石川数正は清和帝二十四世として霊廟に記載されてます。
[[石川日出鶴丸]]を輩出した事で知られる越中石川氏の祖・[[石川義昌]]は義時の末裔であるとされる。
|