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{{タイ君主表
|人物名 = タークシン大王<BR>{{Lang|th| สมเด็จพระเจ้ากรุงธนบุรี}}<BR>鄭信
|タイ語表記 =
|称号 = [[タイ王国|シャム]][[タイ君主一覧|国王]]
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|埋葬地 =
|全名 =
|別名 = 鄭信、鄭昭、鄭国英、シン、プラヤー・ターク
|王朝 = [[トンブリー王朝]]
|家系 =
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|脚注 =
}}
'''タークシン'''(Taksin、[[1734年]][[4月17日]] - [[1782年]][[4月6日]])は[[タイ王国|タイ]]の[[トンブリー王朝|トンブリー朝]]の王。[[華僑]]としてタイの君主となった。中国名は'''鄭信'''、'''鄭昭'''または'''鄭国英'''。『[[清実録]]』は'''甘恩敕'''、'''丕雅新'''、鄭昭と呼ばれる
 
同じ中国系タイ人である[[タクシン・チナワット]]ら「タクシン」名の人物と混同されるが、タークシン(ตากสิน)とタクシン(ทักษิน; Thaksin)は[[タイ語]]の綴りが異なり、別の名前である。
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== 生涯 ==
 
[[潮州市|潮州]]出身の[[華人]]で、賭博場から税を徴収する役人[[鄭鏞]]の子として生まれ、父から'''鄭信'''と名付けられた。幼い時にタイ族のプラヤー・チャックリー([[ラーマ1世]]とは別人)という官吏の養子となり、養父から「'''シン'''」({{lang|th|สิน}}、[[潮州タイ語]]で''''''」の意味)と名付けられた。5歳の時に寺に入って13歳まで学んだ後に[[アユタヤ]]で仕官した。その後も宮内の外国人学者達に積極的に教えを請うなど学問に励んでいたという。21歳でタイ族の伝統に則って出家して24歳で還俗し、王の小姓となる。[[ターク]]の監察官に任命され、在任中に知事が死ぬと知事職に就いた。この時、ターク知事の称号に本名の「シン」が付けられて通用名「'''タークシン'''」となった。
 
[[泰緬戦争 (1765年-1767年)]]で[[ビルマ]]の[[コンバウン王朝]]の軍が侵攻してきた際、タークシンは[[カンペーンペット]]の知事に就くため任地へ赴こうとしていたが、急遽アユタヤの防衛に加わった。しかし、[[エーカタット]]王が大砲の音で鼓膜が破れるのを恐れて「大砲は朕の許可を得てから撃て」と命じたにも関わらず、無断で砲撃したタークシンは罪を問われることになったために[[ラヨーン]]へ出奔する。タークシンは挙兵すると[[チャンタブリー]]を制圧した後、潮州系[[華人]]を集めてチャオプラヤー川を遡りアユタヤへ向かったが、すでに[[アユタヤ王朝]]は滅亡し、ビルマ軍によってアユタヤの町も徹底的に破壊されていたため、[[1767年]]([[タイ仏歴]]2310年)、下流の[[トンブリー]]に王朝を建てた。これが[[トンブリー王朝]]である。