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東京裁判の大半の審理を傍聴した「生き証人」として、執筆・講演活動のため日本全国を精力的に飛び回り、若い人々との交流にも積極的であった。その東京裁判に関する知識を駆使し、マスコミ・作家による東京裁判関係の取材にも応えた。
 
[[市ヶ谷台]]一号館([[陸軍士官学校 (日本)|旧陸軍士官学校]]講堂)を取材した[[日本放送協会|NHK]]の番組にも出演。[[山崎豊子]]『[[二つの祖国]]』執筆に当たっても、山崎に東京裁判関係部分の描写について助言を行なった。同書(新潮文庫下巻225ページ、東京裁判法廷における元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[東郷茂徳]]の証言場面、「傍聴席の最前列で連日、法廷記録をメモしている元海軍少佐」とあるのは、冨士のことを指す。
 
== 著書 ==
* 『裁きの庭に通い続けて』([[信行社]] 1986年)
** 改題『私の見た東京裁判(上・下)』([[講談社学術文庫]](上・下) 1988年 『裁きの庭に通い続けて』改題
* 『極東国際軍事裁判関係諸表綴』(1987年)
* 『戦争裁判関係死亡者名簿』(1987年)
* 『東京裁判は証言する 不調に終わった日米交渉、その真相に迫る』(閣文社(上・下) 1991年)
* 『私の見た東京裁判(上・下)』([[講談社学術文庫]] 1988年 『裁きの庭に通い続けて』改題)
* 『東京裁判は証言する(上・下)』([[閣文社]] 1991年)
* 『南京大虐殺はこうしてつくられた』([[展転社]] 1995年)
* 『こうして日本は侵略国にされた』(展転社 1997年)
 
== 脚注 ==
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