「内田百閒」の版間の差分

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* [[1929年]](昭和4年) - [[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]])の合羽坂に転居(佐藤こひと同居)。[[中野勝義]]の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任
* [[1931年]](昭和6年) - 航空部長として、学生の操縦による[[青年日本号]]訪欧飛行を計画・実現。なお、出発日は自分の誕生日であった
* [[1933年]](昭和8年) - [[随筆]]集『[[百鬼園随筆]]』(三笠書房)を刊行、重版数十を重ねベストセラーとなる。
* [[1934年]](昭和9年) - いわゆる「[[法政騒動]]」を機に法政大教授を辞職<ref>『東京朝日新聞』 1934年1月12日</ref>。百{{CP932フォント|閒}}を追い出した陣営には森田草平や[[関口存男]]がいた。以後文筆業に専念。
* [[1936年]](昭和11年) - 長男・久吉死去(24歳)
* [[1939年]](昭和14年) - [[日本郵船]][[嘱託社員|嘱託]]となる( - 1945年)。同年[[台湾]]旅行。百{{CP932フォント|閒}}原作・[[古川緑波]]主演で映画「ロッパの頬白先生」製作。