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===「太平洋戦争」と「大東亜戦争」呼称===
{{See also|大東亜戦争}}
{{wikisource|大東亜戦争の呼称に関する公文書}}
日本では[[1925年]]([[大正]]14年)の日米未来戦記などで「太平洋戦争」が使用された{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48}}が、[[1941年]]に「'''[[大東亜戦争]]'''」が[[閣議決定]]された<ref name=C/>。敗戦後、[[GHQ]]の占領政策で「[[大東亜戦争]]」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた<ref>[[キャロル・グラック]]・[[和田春樹]]・[[姜尚中]]「戦後の「日米関係」を再考する」(『環』vol.8所収)、藤原書店、2002年。および[[キャロル・グラック]]・[[和田春樹]]・[[姜尚中]]『「日米関係」からの自立』藤原書店、2003年。</ref>{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48}}。GHQは[[プレス・コード]]など<ref>GHQ「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」</ref>で「大東亜戦争」の使用を[[新聞]]で避けるように指令し{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=47}}、[[1945年]][[12月8日]](開戦4周年)以降、新聞各紙でGHQ[[民間情報教育局]]作成の「[[太平洋戰爭史|太平洋戰爭史−真実なき軍国日本の崩壊]]」の掲載を開始し、この[[満州事変]]から太平洋戦争までを連続させ日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述した[[戦史]]の単行本10万部は完売、GHQ指導で学校教育でも奨励され、定着した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=47}}。[[12月15日]]の[[神道指令]]<ref name="E">[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317996.htm 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」]([[SCAPIN]] No.448, 1945年12月25日)</ref>では[[軍国主義]]・[[国家主義]]を連想させるとして「大東亜戦争」呼称の使用を[[文書|公文書]]において禁止した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=46}}(のち失効{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48}}<ref>[[1952年]](昭和27年)[[4月11日]]「[[ポツダム命令#ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律|ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律]]」(法律第81号)</ref>)。翌1946年、[[法律]]や[[勅令]]の文言は「今次ノ戦争」と改められた<ref>「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)</ref>。日本政府はGHQの政策以降、現在まで公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」などを用いている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=46}}。ただし[[2006年]] - [[2007年]]([[平成]]18年度)の政府見解では「大東亜戦争」「太平洋戦争」の定義を定める法令はないとされた<ref name="第165">[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/165197.htm 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書](第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)</ref>{{refnest|name="第166"|[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166006.htm 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書](第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)<ref group="注">この質問を行った[[鈴木宗男]][[衆議院]]議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している([http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166219.htm 太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書](第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。</ref>}}。
 
続いて、日本海軍航空隊によるアメリカ領[[ハワイ]]の[[オアフ島]]にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃([[真珠湾攻撃]])も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
;宣戦布告
{{wikisource|米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書}}
{{試聴
|type = speech
その直後に、[[日ソ中立条約]]を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を基に、[[1946年]]4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、[[8月8日]]に[[ソ連対日宣戦布告|対日宣戦布告]]をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した([[ソ連対日参戦]])。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の[[関東軍]]は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり大規模な抵抗ができないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に[[中国残留孤児]]問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太([[樺太の戦い]])、千島列島([[占守島の戦い]])などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、[[シベリア]]に抑留された([[シベリア抑留]])。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、10万人を超える死者を出した。
;降伏
{{wikisource|大東亞戰爭終結ノ詔書}}
[[画像:Douglas MacArthur signs formal surrender.jpg|thumb|9月2日、ミズーリ艦上にて[[日本の降伏文書]]に署名するダグラス・マッカーサー]]
[[8月9日]]の[[御前会議]]において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にした。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は降伏を回避しようとしたので議論は混乱した。しかし[[鈴木貫太郎]]首相が天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。[[8月14日]]、[[s:大東亞戰爭終結ノ詔書|終戦の詔書]]が発され[[ポツダム宣言]]を受諾([[日本の降伏]])することになった。
 
== 関連項目 ==
{{wikisource|大東亜戦争の呼称に関する公文書}}
{{wikisource|米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書}}
{{wikisource|大東亞戰爭終結ノ詔書}}
{{Commonscat|Pacific War}}
*[[:en:European theatre of World War II|European theatre of World War II]]
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