「天然痘」の版間の差分

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[[旧大陸]]では久しく流行状態が続いており、住民にある程度抵抗力ができて、症状や死亡率は軽減していたが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。他にも麻疹や[[流行性耳下腺炎]](おたふく風邪)などがヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものであり、白人の北アメリカ大陸征服を助ける結果となった。新大陸の二大帝国であった[[アステカ]]と[[インカ帝国]]の滅亡の大きな原因の一つは天然痘であった。アステカに天然痘が持ち込まれたのは[[1520年]]ごろ、[[エルナン・コルテス]]の侵攻軍によってであると考えられているが、天然痘は瞬く間に大流行を起こし、[[モクテスマ2世]]にかわって即位した新王[[クィトラワク]]を病死させるなどしてアステカの滅亡の原因の一つとなった。さらにスペインの占領後も天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労働、麻疹や[[チフス]]など他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対し、16世紀末の人口はおよそ100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊滅的な打撃を受けた<ref>「物語メキシコの歴史」p40 中央公論新社 大垣貴志郎 2008年2月25日発行 </ref>。また、インカ帝国においては侵攻を受ける前に、すでにスペイン人の到達していた[[カリブ海]]沿岸地域から天然痘が侵入し、現在の[[コロンビア]]南部において[[1527年]]ごろに大流行を起こした。この大流行によって当時のインカ皇帝である[[ワイナ・カパック]]と皇太子である[[ニナン・クヨチ]]がともに死去し、空位となった王位をめぐって[[ワスカル]]と[[アタワルパ]]の二人の王子が帝国を二分する内戦を起こした。この内戦はアタワルパの勝利に終わったものの、インカの国力は疲弊し、スペインの[[フランシスコ・ピサロ]]による征服を許す結果となった。さらにインカ帝国においても征服後は同様に天然痘をはじめとする疫病が大流行し、先住民人口の激減を招いた。
 
[[北アメリカ]]では白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もあると言われている。[[フレンチ・インディアン戦争]]や[[ポンティアック戦争]]では、[[イギリス軍]]が天然痘[[患者]]が使用し汚染された[[毛布]]等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとしたとされ、19世紀に入ってもなおこの[[民族浄化]]の手法は続けられた。[[モンタナ州]]の[[ブラックフット族]]などは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史を伝えている。ただし、肝心の英国側にはそのような作戦を行った証拠となる記録は無い{{要出典|date=2019年4月}}
 
=== 東アジア・日本 ===