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=== 構造 ===
零戦は、速力、上昇力、航続力を満たすため、軽量化を徹底している<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫137-138頁</ref>。同時期の艦載戦闘機である[[グラマン]]の[[F4F (航空機)|F4F]]が構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦は材質自体で強度を確保し機体骨格に肉抜き穴を開けるなどしていた<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫125-126頁</ref>。
零戦は、速力、上昇力、航続力を満たすため、特に軽量化に強くこだわり<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫137-138頁</ref>、構造で機体強度を確保する[[グラマン]]の[[F4F (航空機)|F4F]]とは逆に材質自体に強度を与えていた<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫125-126頁</ref>。[[ボルト (部品)|ボルト]]や[[ねじ]]などに至るまで徹底し軽量化したため、初期の飛行試験では設計上の安全率に想定されていない瑕疵が機体の破壊に直結している。[[1940年]](昭和15年)3月に、十二試艦戦二号機が、昇降舵マスバランスの疲労脱落による[[フラッター現象|フラッタ]]により空中分解し墜落、[[テストパイロット]]の奥山益美が殉職、さらに[[1941年]](昭和16年)4月には、二一型百四十号機と百三十五号機が、バランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合[[フラッター現象|フラッタ]]により急降下中空中分解、下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している<ref name="zf">[[柳田邦男]]『零式戦闘機』([[文藝春秋]]、1977年) ISBN 4-16-334100-5</ref>。軽量化を優先した結果、乗降通路である主翼フラップ部分は人間が乗れないほどの強度となり、操縦席の横に補強した脚置き場を設置し胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。強度の低いフラップ部主翼上面には赤線で足踏み禁止の範囲を表示している。軽量化のため機体骨格に多くの肉抜き穴を開けたり、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、大量生産には向かない設計となっているのも、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。設計段階から生産効率を考慮した[[P-51 (航空機)|P-51]]と比較すると零戦の生産工数は3倍程度多い。
 
零戦は、速力、上昇力、航続力を満たすため、特に軽量化は骨格強くこだわり<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫137-138頁</ref>、構造で機体強度を確保する[[グラマン]]の[[F4F (航空機)|F4F]]は逆に材質自体に強度を与えていた<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫125-126頁</ref>。どまらず[[ボルト (部品)|ボルト]]や[[ねじ]]などに至るまで徹底し軽量化したため、初期の飛行試験では設計上の安全率に想定されていない瑕疵が機体の破壊に直結している。[[1940年]](昭和15年)3月に、十二試艦戦二号機が、昇降舵マスバランスの疲労脱落による[[フラッター現象|フラッタ]]により空中分解し墜落、[[テストパイロット]]の奥山益美が殉職、さらに[[1941年]](昭和16年)4月には、二一型百四十号機と百三十五号機が、バランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合[[フラッター現象|フラッタ]]により急降下中空中分解、下川万兵衛大尉が殉職する事故が発生、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している<ref name="zf">[[柳田邦男]]『零式戦闘機』([[文藝春秋]]、1977年) ISBN 4-16-334100-5</ref>。軽量化を優先した結果、乗降通路である主翼フラップ部分は人間が乗れないほどの強度となり、操縦席の横に補強した脚置き場を設置し胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。強度の低いフラップ部主翼上面には赤線で足踏み禁止の範囲を表示している。軽量化のため機体骨格に多くの肉抜き穴を開けたり、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、大量生産には向かない設計となっているのも、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。設計段階から生産効率を考慮した[[P-51 (航空機)|P-51]]と比較すると零戦の生産工数は3倍程度多い
零戦二一型の鹵獲機体の調査に携わった[[ヴォート・エアクラフト・インダストリーズ|チャンスヴォート]]のエンジニアから、[[ヴォート V-143|V-143]]戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が大戦中のみならず現在でも一部海外で存在するが、この説は開発開始時期の相違により否定されている。外見や寸法が似ている[[グロスター F.5/34|グロスターF.5/34]]([[降着装置]]が半引き込み式で、尾部のとんがりが少々長いが、外形、寸法、各種数値は酷似)をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。またグロスターF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている。似ているのは、コピー云々ではなく、機体の形状が冒険を避けオーソドックスにまとめられた結果である。
 
生産段階でも多数の肉抜き穴や、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が増える設計となっているが、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。大戦中期以降は後継機の開発が遅れたため生産数を増やす必要に迫れたことで設計を変更し工数を減らす努力が続けられたが、設計段階から生産効率を考慮した[[P-51 (航空機)|P-51]]と比較すると零戦の生産工数は3倍程度もあり生産側の負担となった<ref group="注釈">P-51では工程の多い沈頭鋲ではなく通常のリベットを電動工具で削るなど、最終的に短時間となる手段を選択している。</ref>。
 
零戦二一型の鹵獲機体の調査に携わった[[ヴォート・エアクラフト・インダストリーズ|チャンスヴォート]]のエンジニアから、[[ヴォート V-143|V-143]]戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が大戦中のみならず現在でも一部海外で存在するが、この説は開発開始時期の相違により否定されている。外見や寸法が似ている[[グロスター F.5/34|グロスターF.5/34]]([[降着装置]]が半引き込み式で、尾部のとんがり突起が少々長いが、外形、寸法、各種数値は酷似)をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。またグロスターF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造であり、コピー説は否定されている。似ているのは、コピー云々ではなく、機体形状に関しては冒険を避けオーソドックス当時主流の設計にまとめられた結果である。
 
零戦には九六式艦上戦闘機同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の[[九七式戦闘機]]に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。
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[[ファイル:A6M3 Model32-common.jpg|thumb|練習航空隊の零戦三二型 (A6M3)]]
[[ファイル:A6M5 52c Kyushu.jpg|thumb|出撃準備中の零戦五二型丙 (A6M5c)]]
零戦の性能向上が不十分だった原因として、発動機換装による馬力向上の失敗がある。雷電・紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三型 (A6M6) の開発を開始、[[水メタノール噴射装置(混合液を気化器周辺へ噴射し冷却を行い酸素濃度を高める仕組み)]]の追加によって出力向上を図った[[栄 (エンジン)|栄三一型]](離昇1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580 [[キロメートル毎時|km/h]]台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、[[1944年]](昭和19年)秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦(五二型系列約300機)の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われ、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの時に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産できない栄三一型の代わり栄二一型が零戦に装備されることになったものの、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整は困難かつ実効がほとんど認められず、性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった(同時期に陸軍の栄三一型審査担当者は審査完了しており、水メタノール噴射装置の可能性を実感した結果、これを改良した栄三二型(離昇1,300馬力)を搭載した一式戦闘機三型を[[1944年]](昭和19年)7月から量産開始した)。この結果、大量生産された零戦五二型丙 (A6M5c) は栄二一型(離昇1,130馬力)装備のまま武装・防弾のみを強化したため正規全備重量が3,000[[キログラム|kg]]近く増加し、急降下性能の向上は見られたが、零戦の持ち味であった運動性能・上昇力の低下した機体が量産されるに至った。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、既に審査終了が[[1945年]](昭和20年)の初頭になっていた。その後、零戦六二型(A6M7)には栄三一型甲/乙(離昇1,210馬力)、これと併行して零戦六三型(A6M7)には栄三一型(離昇1,300馬力を予定)を[[1945年]](昭和20年)2月から量産開始させたが、その大多数は水メタノール噴射装置を廃した栄三一型甲/乙を搭載した零戦六二型(A6M7)で、一部は保管され審査完了待ち状態だった栄三一型を零戦六三型(A6M7)に装備した。2機種を競合させて零戦六二型(A6M7)の生産を優先させた理由は、水メタノール噴射装置自体の重量が約100[[キログラム|kg]]と70lの水メタノールタンクで合わせて約170[[キログラム|kg]]以上の重量があったため、零戦の運動性能が損なわれると判断されたからである。水メタノール噴射装置の不具合とそれによって引き起こされる稼働率の低下も問題になったと考えられる。運動性能を重視して稼働率の高い零戦六二型(A6M7)か、速度性能を重視して稼働率の低い零戦六三型(A6M7)を競合させた結果、前者の方を量産するに至った。
 
零戦に栄より大馬力を期待できる[[金星 (エンジン)|金星]]を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型を採用、次に[[1943年]](昭和18年)秋に中島飛行機での[[誉 (エンジン)|誉]]増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電二一型 (J2M3) の生産開始が近く、中止になっている。[[1945年]](昭和20年)、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄は生産中止となり、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画された。零戦五四型 (A6M8) 発動機換装型は、艦上爆撃機[[彗星 (航空機)|彗星]]三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した間に合わせ的な機体だが、発動機換装により正規全備で3,100kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3&nbsp;km/hの速度と五二型甲 (A6M5a) 並みの上昇力となったが航続距離は大幅低下、局地戦闘機的な性格が強い機体となる。性能向上型としては成功したように思える五四型だが、試作一号機が[[1945年]](昭和20年)4月に完成する数ヶ月前に、金星を生産する三菱の発動機工場が[[B-29 (航空機)|B-29]]の爆撃によって壊滅、結局試作機2機が完成したに過ぎず、零戦は最後まで栄を搭載せざるを得なかった。
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また開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも三二型の大量生産計画が立てられていた。しかし、いわゆる「二号零戦問題」と栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止、[[1944年]](昭和19年)前半まで零戦二一型の生産を続けている<ref group="注釈">[[1944年]](昭和19年)頃になると中島製二一型は訓練や防空、爆撃などの任務に用いられることが多く、マリアナ沖海戦でも[[爆戦]]として投入されている。</ref>。
 
設計者の堀越は昭和19年9月の社内飛行試験報告において軍へ、工作精度の低下、劣悪な燃料から生産機は設計値から25%の性能低下、とした試算、実験報告をしている。アメリカ軍が安定して現代の[[ハイオクガソリン]]と遜色ない100[[オクタン価|オクタン]]100以上航空燃料だっを安定的に使用できたのにし、日本軍は現代のレギュラーガソリン以下航空91揮発油は額面上では91オクタン値の燃料しかなく、末期であるが実際には[[松根87程度、航空87揮発]]な(87オクタン)は85程度という証言もあり<ref>『保存版 銀河/一式陸攻 軍用機メカ・シリーズ13』「知られざ代替燃料銀河部隊の戦跡」,雑誌「丸」編集部,光人社,1994年,P121</ref>、品質悪化すら困窮しており不調や性能低下の原因となっが誘発された。
 
; 定速回転プロペラ
恒速回転プロペラとも呼ばれ、回転数を一定に保つため、プロペラピッチ変更<ref group="注釈">自動車のギヤシフトに相当する。</ref> を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である<ref group="注釈">プロペラピッチの変更は29-49度の間で変更が可能である。</ref>。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。零戦に使用されたのは当時多くの機体に使われていた[[ユナイテッド・テクノロジーズ|ハミルトン・スタンダード]]製の油圧式可変プロペラを海軍向けのプロペラを生産していた住友金属工業が[[ライセンス生産]]したものである。陸軍向けは[[ヤマハ|日本楽器製造]]が生産している。
 
アメリカの参戦により以降に開発された改良型や新型の情報、より精密な加工に必要な工作機械が入手できなくなった。対策として住友金属では独自に改良型の試作が行われ[[一〇〇式司令部偵察機]]三型にピッチの変更範囲を35度に拡大したペ26が採用された<ref>[https://global.yamaha-motor.com/jp/profile/technology/yamamomo/001/ やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし - ヤマハ発動機の技と術] - [[ヤマハ発動機]]</ref>もの、素材や工作機械精度により性能はあまり向上しなかは限定的であった。住友金属ではドイツの[[:de:Vereinigte Deutsche Metallwerke|VDM社]]からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラも生産しており[[雷電 (航空機)|雷電]]などに採用されたが、構造が複雑で生産工程数や部品点数が多く振動問題もあったため、零戦は旧式ではあるが信頼性の高いハミルトン式の採用が続いた。大戦前の旧式プロペラが改良されなかったことは発動機と共に性能速度向上の足かせとなった。
 
;機銃
{{see also|九九式二〇ミリ機銃}}
爆撃機など双発以上の大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃搭載が求められており、初期型から機首の7.7mm機銃2挺に加え翼内に20mm機銃2挺を搭載しており、当時としては高火力な機体となった。
 
零戦初期型は、20mm機銃2挺(翼内)と7.7mm機銃2挺(機首)搭載。
 
[[ファイル:7.7mmType97AircraftMG.jpg|thumb|九七式七粍七固定機銃]]
7.7mm機銃は当時のイギリス軍の歩兵銃、また日本海軍でも国産化していた[[ルイス軽機関銃|留式七粍七旋回機銃]]と同じ[[.303ブリティッシュ弾|7.7x56R弾(.303ブリティッシュ弾)]]使用で、これは輸入した複葉機の時代からのもので、この[[ヴィッカース重機関銃|歩兵用の重機関銃]]を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に[[九七式七粍七固定機銃|九七式固定機銃]])として国産化したものであった。7.7mm機銃を機種上部に配置したため、操縦席の正面パネルは計器類を下に寄せたレイアウトとなっている
 
7.7mm機銃は当時のイギリス軍の歩兵銃、また日本海軍でも国産化していた[[ルイス軽機関銃|留式七粍七旋回機銃]]と同じ[[.303ブリティッシュ弾|7.7x56R弾(.303ブリティッシュ弾)]]使用で、これは輸入した複葉機の時代からのもので、この[[ヴィッカース重機関銃|歩兵用の重機関銃]]を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に[[九七式七粍七固定機銃|九七式固定機銃]])として国産化したものであった。
 
7.7mm機銃を機種上部に配置し、操縦席の正面パネルは計器類を下に寄せたレイアウトとなっている。
 
爆撃機など双発以上の大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃搭載が求められていた。
 
[[ファイル:Navy Type 99-1 & 99-2.JPG|thumb|九九式一号二〇粍機銃(上)、九九式二号二〇粍機銃(下)]]
零戦搭載の20mm機銃は[[エリコンFF 20 mm 機関砲|エリコンFF]]をライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型で、初速は一号銃 (FF) が600[[メートル毎秒|m/s]]、二号銃 (FFL) が750m/s、携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二型甲以降搭載)となっていた。
携行弾数は60発ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)/125発ベルト給弾(九九式二号四型・五二型甲以降搭載)となっていた。
 
20mm機銃は大型機対策として搭載したものだが、防御力が高く7.7mmでは効果の薄い[[F4F (航空機)|F4F]]にも有効な20mm機銃の威力であり、空戦でも活躍したことは多くの搭乗員が認めている。しかし携行弾数60発(初期型)を二斉射で全弾消費するパイロットもおり、多数のF4Fを相手にする際は弾数が不足しがちであった<ref>「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.8「20mm機銃の携帯弾数は不足にして一銃少なくとも100発を要するものと認む」</ref>。他にも7.7mmとの弾道の違い、旋回による発射G制限などが欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。
[[ファイル:20mmvs7mm.png|thumb|7.7mm機銃と20mm機銃(1号銃)の弾道]]
 
九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあって[[B-17 (航空機)|B-17フライングフォートレス]]の防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍鹵獲の実物で確認、高初速の二号銃の採用で弾道、貫通力改善、先行し信管の改良も実施。
 
携行弾数は、初期の60発ドラム弾倉が、改良され最終的にベルト給弾化、125発に増加。エリコンFFシリーズは弾倉が機銃構造の一部に含まれ、ベルト給弾化は困難で、本家スイスのみならず技術先進国のドイツでも実施されておらず、日本の九九式二号四型が唯一の事例であった。
 
九九式20mm機銃は威力を活かし重装甲のB-17やF4Fを数発で撃墜し、米軍に脅威を与えた。しかし「照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる」ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があった。特にり用兵側は一号銃に顕著だ不満を持たが、照準さえ良ければ一撃で撃墜可能な威力を活かし開戦直後から、重厚な防弾装甲を施された[[B-17 (航空機)|B-17フライングフォートレス]]やF4Fをも撃墜し、米軍に脅威を与えた。それでも用兵側にとっては不満が残り、[[ミッドウェー海戦]]で沈んだ空母「[[加賀 (空母)|加賀]]」の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている<ref>「ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)」p.19「20mm機銃携行弾数及弾丸威力を更に増大するの要を痛感す」</ref>。
 
[[ファイル:三式13.2mm機銃.jpg|thumb|[[大和ミュージアム]]に展示される三式13.2mm機銃]]
また、大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6 - 8門を装備した[[F6F (航空機)|F6F]]や[[P-51 (航空機)|P-51]]を投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃二挺に替えて、[[三式十三粍固定機銃|三式13.2mm機銃]]を1 - 3挺(機首1、翼内2)搭載した型も登場した。
 
;防弾
防弾装備の追加は防弾タンクや自動消火装置の実用化が遅れたことや、開戦から一年も経たずに[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島で始まった連合国軍の反撃]]に対応するため、改修による生産数や飛行性能の低下が許容できず先送りされた。ただし[[1943年]](昭和18年)末生産開始の五二型後期生産型から翼内タンクに炭酸ガス噴射式自動消火装置を、翌[[1944年]](昭和19年)生産開始の五二型乙から操縦席に50mm防弾ガラスを付加、更に五二型丙からは座席後方に8mm防弾鋼板を追加、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式としたが、十分ではなかった。
 
零戦は徹底した軽量化による機動性重視のため、防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されておらず、[[F4F (航空機)|F4F]]などの米軍機に比べ、被弾に弱かった。後述のように初陣から防弾の不備は搭乗員から指摘されており、その後の改修でもしばらく防弾装備は後回しにされていたが、五二型以後は装備されるようになった。ただ、零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れた点では同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で新人には難しく、気象条件や位置に左右されるなど限界もあった。防弾装備を増設すると重量が増加し、最大の利点である運動性が低下するトレードオフが生じていた。
 
設計者の[[堀越二郎]]は、開発時に防弾を施さなかったことは優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている<ref>堀越二郎『零戦―その誕生と栄光の記録 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)』光文社215-217、225-233頁</ref>。当時は大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低く、海軍からも特に注文はなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している<ref>堀越二郎『零戦』1970 216-217頁</ref>。技術廠技術将校岸田純之助は「パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした。防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫139-140頁</ref>、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択。日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があった」と語っている<ref>NHK取材班『電子兵器「カミカゼ」を制す(太平洋戦争日本の敗因3)』角川文庫146-147頁</ref>。
 
;通信装置