「西郷隆盛」の版間の差分

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死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵([[エドアルド・キヨッソーネ]]作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の[[西郷従道]]の顔の上半分、従弟・[[大山巌]]の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったが、キヨッソーネは上司であった[[得能良介]]を通じて多くの薩摩人と知り合っており、得能の娘婿であった西郷従道とも親しくしていたため、西郷を知る人の意見が取り入れられた満足のいく肖像画になっているのではないかと言われている<ref>[[明治美術会 ]]/(財)印刷局朝陽会 編『お雇い外国人キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年、23頁</ref>。
 
生前に面識のあった[[板垣退助]]は、[[上野恩賜公園|上野公園]]に建立された銅像に不満を持ち<ref>[[土陽新聞]]、1905年6月5日、6頁</ref>、洋画家の[[光永眠雷]]に指示して新たな肖像画を描かせ、二点が作られたが一点は[[大山厳]]、[[田中光顕]]、[[明治天皇]]の天覧を経て、[[西郷糸子|西郷糸]]へ。もう一点は西郷家から大山を経て宮内省に渡ったが、二点とも現在は行方不明である。しかし[[1910年]]に日韓併合記念として写真版で印刷発行されており、現在[[岡山県立記録資料館]]が所蔵している。9歳から17歳まで鹿児島の西郷本家に住んだ[[西郷菊次郎|菊次郎]]曰く 「上野公園の銅像も、無論充分ではありません。私の案を立てた父の肖像画も、この点については真を写してはおりません」との事<ref>『逸話文庫 通俗教育 志士の巻』</ref>。
 
鹿児島郡武村(鹿児島市武町)の西郷屋敷の隣家に住んでいた[[肥後氏|肥後]]直熊は、幼少のころ西郷に可愛がられ、「直坊」と愛称され、膝の上で遊んだという。この絵は、昭和2年(1927年)の西郷没後50年祭の契機に、昔の思い出をもとに西郷を描いた。肥後直熊の絵は、真実の西郷に最もよく似ていると評価され、同種のものが石版刷りとなって広く頒布された。