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{{出典の明記|date=2018年9月14日 (金) 02:39 (UTC)|ソートキー=人1975年没}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = ルイージ・ダッラピッコラ
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'''ルイージ・ダッラピッコラ'''(Luigi Dallapiccola, [[1904年]][[2月3日]] - [[1975年]][[2月19日]])は、[[イタリア]]の[[作曲家]]。姓はダルラピッコラ、ダラピッコラとも表記する。[[抒情詩]]調の[[十二音技法|十二音]]音楽の作曲<ref>{{Cite web |url =https://www.jstor.org/stable/24301445?seq=1#page_scan_tab_contents |title = SULLA DODECAFONIA DI DALLAPICCOLA |publisher =www.jstor.org |date = |accessdate =2019-04-04 }}</ref>で知られる。
 
== 生涯 ==
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彼の作品が人々の目に触れるようになった([[オペラ]]『囚われ人』によって名を成した)のは戦後のことであるが、その頃には彼の活動は比較的沈静化していた。彼は頻繁に[[アメリカ合衆国]]へ旅行し、[[タングルウッド音楽祭]]に出演したり、[[1956年]]からは[[ニューヨーク市立大学クイーンズ校]]で作曲の教授を務めたりしている。彼は西ヨーロッパからアメリカにわたって、引っ張りだこの[[教育者]]であった。[[1968年]]に製作したオペラ『ウリッセ ''Ulisse''』以後、彼が作曲をすることはまれになり、その後の歳月は大部分を[[随筆|エッセイ]]の執筆に費やしている。
 
ダッラピッコラは[[1972年]]以降は健康を害してもはや作曲を完成させることができなくなり、[[1975年]]に[[フィレンツェ]]で[[肺水腫]]のため死去している。しかしながら、この時期の作品の下書きや断片がごくわずかながら残されており、その中には彼が亡くなる数時間前に作られて未完のまま残された[[声楽]]曲などがある。弟子も定期的にとっており、[[フォード財団]]の助成で留学した[[フレデリック・ジェフスキー]]が有名
 
== 音楽 ==
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*''Commiatio'' (1972年)
 
==エピソード文献==
彼の最も有名な弟子は、[[フォード財団]]の助成で留学した[[フレデリック・ジェフスキー]]である。しかし、ダッラピッコラは趣味が合わないとみるや否や、即刻首にしたという。
==参考文献==
*John C. G. Waterhouse, "Luigi Dallapiccola". ''Grove Music'' Online.
*Anthony Sellors, "Luigi Dallapiccola", "''Ulisse''", "''Il prigionero''". Grove Music Online (OperaBase).
 
==脚注==
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{{Reflist}}
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{{Normdaten}}
[[Category:イタリアの作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]