「ベンガル太守」の版間の差分

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(意味が通らない文章の修正。)
 
一方、[[6月4日]]、イギリスは内通していたミール・ジャアファルとの間に条約を結び、シラージュ・ウッダウラ打倒後の太守位を約束された<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。その条約では、シラージュ・ウッダウラのカルカッタ攻撃で被った損害の賠償として1000万ルピーの支払い、カルカッタの南[[カールピー]]までの地がイギリスの[[ザミーンダーリー]]に置かれ、他のザミーンダールと同様の方法でその租税を太守に納入することなどが定められた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.85</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.270</ref>。シラージュ・ウッダウラはそのころになってようやく自分の周りを取り巻く陰謀に気づき、ミール・ジャアファルに懸念を伝えに行ったが、ミール・ジャアファルは上手くごまかしたため、ともにカルカッタ近郊の[[プラッシー (インド)|プラッシー]]へと向かった<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.85-86</ref>。
 
[[6月23日]]、シラージュ・ウッダウラ率いる大軍はロバート・クライヴの率いる少数の軍勢とプラッシーで激突した([[プラッシーの戦い]])。だが、軍勢の大部分を率いてたミール・ジャアファルはイギリスとの条約で非協力を約束していたため、戦いを傍観するだけであった。シラージュ・ウッダウラは戦いに敗れて逃げ、ミール・ジャアファルは公然とクライヴと合流し、勝利の祝意を述べた<ref>堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.87</ref>。
 
そして、同月末、ミール・ジャアファルはムルシダーバードに入城し、新たなベンガル太守となった。一方、シラージュ・ウッダウラは逃げきれずに捕えられ、[[7月4日]]に殺害され、その遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれた<ref>[http://www.royalark.net/India4/murshid4.htm Murshidabad 4]</ref>。
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