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紺屋町(こんやまち)は、香川県高松市中心部の町丁。
 
歴史
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|subdivision_name4 = [[高松]]
|established_title = 新設
|established_date = [[江戸時代1958年]](昭和33年)
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== 歴史 ==
町域の大部分は江戸時代から[[1958年]](昭和33年)まで南紺屋町と呼称した。古くからあったとみられる職人町の1つで、職業別集住制に基づいて[[染色]]職人が住んだことが町名の由来である。[[寛永]]17年([[1640年]]頃)の高松城下絵図に「こうや町」と記載があるのが初見である<ref name="角川">{{Cite book|和書 |author= 芝辻貞吉|year= 1985|month= 9|title= 角川日本地名大辞典37 香川県|publisher= 角川書店|page= |id= |isbn= 978-4-04-001370-1}}</ref>。
 
江戸期の町内には[[点者]]を業とした山崎柏舟が在住し、[[天明]]元年([[1781年]]頃)俳書「通俗志」、後に改訂版「俳諧通俗志季節早合点」を出版した。また幕末・明治維新期には画家の安原枝澄(三江)が在住し、俳句狂歌にも長じたほか、「讃岐国名勝図会」に盆踊りの絵を描き、[[石清尾八幡宮]]御渡の図を残した<ref>{{Cite book|和書 |author= 高松市史編集室著|year= 1964|title= 新修高松市史 Ⅰ|publisher= 高松市役所|page= |id= |isbn= }}</ref>。
 
[[1890年]](明治23年)[[2月15日]]にはそれまで城下町各町の集合体であった高松の区域を以って市制を施行して高松市が成立し、南紺屋町はその一部となった。また碑文・墓文・広告などから売薬まで手掛けた書画骨董舗の山崎挿雲堂があった。[[1945年]](昭和20年)[[7月4日]]未明にはアメリカ軍による無差別[[絨毯爆撃]]「[[高松空襲]]」を受け、焼失率100%で町内全てが灰燼に帰した。空襲で壊滅的な被害を受けた高松市中心部では大部分で[[土地区画整理事業]]([[戦災復興土地区画整理事業]])が施行され、外磨屋町も全域が第一工区第一次区域として区画整理の対象となった。この区画整理事業の完工となる[[換地処分]]公告は[[1958年]](昭和33年)[[7月10日]]である。その翌日[[7月11日]]の地番整理を以って町域が変わり、南紺屋町は大部分が紺屋町に置き換えられ、一部が三番町及び[[丸亀町 (高松市)|丸亀町]]へ編入され、同時に一番丁、外磨屋町、南鍛冶屋町、三番丁及び丸亀町の一部を当町に編入した。[[1968年]](昭和43年)、隣町の[[住居表示]]導入に伴い、中央通り以西と市道二番町築地線以南が[[番町 (高松市)|番町一丁目~四丁目]]へ編入される<ref name="角川" />。
 
== 主要施設 ==