「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

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コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。しかしその動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてはっきりわかることは何もない<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた<ref name="ランソン2012p105"/>{{refnest|group="注釈"|ヴェーヌはコンスタンティヌス1世の改宗についてその内心を知ることは不可能であり、それを推し量ることは無意味であると言う。ヴェーヌはこの問題について「心理学者たちが語るところの、あの開くことのできない『ブラックボックス』(もしくは、もしひとが信者なら、『助力の恩恵〔神の超自然の助け〕』)のうちに見いだされるものなのだ。宗教的な感情を覚えるとはひとつの情動であり、ある存在、ある神が実在するというむき出しの事実を信じることは説明不可能なままにとどまる表象行為なのである。」と述べている<ref name="ヴェーヌ2010p70"/>。}}。
 
動機を推測する上ではっきり言えることは、キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである<ref name="ランソン2012pp18,19_20">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], pp. 18, 19-20</ref>。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる<ref name="ランソン2012pp18,19_20"/>。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった<ref name="ジョーンズ2008p84"/>。上流階級たる元老院身分、騎士身分(''equites'')、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし<ref name="豊田1994pp88_89">[[#豊田 1994|豊田 1994]], pp. 88-89</ref><ref name="ジョーンズ2008p84"/>、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の[[密儀宗教]]、[[ミトラス教]]が流行していた<ref name="ジョーンズ2008p84"/><ref name="小川1993pp189,222_227">[[#小川 1993|小川 1993]], pp. 189, 222-227</ref>。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神({{仮リンク|ソル・インウィクトゥス|en|Sol Invictus|label=ソル}})[[ミトラス]](ミトラ)の神性を表す称号の1つである<ref name="小川1993p219">[[#小川 1993|小川 1993]], p. 219</ref>。
 
また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼を[[ユピテル]]を始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない<ref name="ジョーンズ2008p85"/>。古代の歴史家においても例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった<ref name="尚樹2005p42">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 42</ref>。