「太平洋戦争」の版間の差分

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;「大東亜戦争」の呼称の決定
12月10日の[[大本営政府連絡会議]]で支那事変と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=44}}、12月12日の[[閣議決定]]で戦争名称は「'''大東亜戦争'''({{lang-en-short|Great East Asia War}}{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=44}})」、戦時分界時期は昭和16年12月8日午前1時30分と決定した<ref name=C/>。同日内閣[[情報局]]は、[[アジア]]諸国における[[欧米]]の[[植民地]]支配の打倒を目指す「[[東亜新秩序|大東亜新秩序]]建設」を[[戦争目的]]とした{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。
 
マレー作戦や真珠湾攻撃などにより、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、[[12月10日]]に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告した。[[12月11日]]にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、名実ともに[[世界大戦]]となった。
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===日本とアジアの高度人材の育成・国策「興亜工業大學」の設立===
[[File:Chiba Institute of Technology, Machida, Tokyo,1942-1.jpg|thumb|right|220px|[[千葉工業大学|興亜工業大學(現・千葉工業大学]])]]
また、1941年(昭和16年)12月8日の開戦と同時に、[[大日本帝国政府]]主導で進められてきた[[国策]]・「興亜工業大學(現在の[[千葉工業大学]])」の設立許可が出される。この大学は1941年7月頃から国策化され、[[大日本帝国政府]]によって、明治以来の[[東京帝国大学]]を頂点として成り立ってきた[[西欧]]起源の最高学府とは異なった[[コンセプト]]([[西田哲学]]を根源とし、アジア文化圏が[[世界文化]]に貢献する為の拠点)とする初の[[国策]]の最高学府として計画され、[[1942年]](昭和17年)[[5月15日]]に設立。同年6月8日に第1回入学式が挙行されている。なお、同大学の教育理念及び教育方針、大学の成立趣旨は[[東條英機]]首相の依頼を受けて[[大東亜共栄圏]]構想の原型となる「世界新秩序の原理(太平洋戦争における日本の参加意義と国家的指針などついての論文)」を執筆した[[西田幾多郎]][[京都帝国大学]][[名誉教授]]によって草稿されたものである。しかし、同大学の設立趣旨は西田の思想で書かれているが、肝心要の日本政府の国策要領は西田の思想と異なるもの(論文(世界新秩序の原理)が難解だったこともあり、東條英機に西田の共栄圏構想のビジョンが正しく理解されなかった)で、この為、西田は、後に[[和辻哲郎]]宛の手紙の中で「東条の演説(東條が唱えた共栄圏構想)には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという(西田は「最も誡めるべきは[[皇道]]の[[帝国主義]]化である」と書き記している)。西田の唱えたオリジナルの共栄圏構想では「日本が中心となってアジアを導く」というのではなく、それぞれの国の違い([[個性]]や[[文化]])を尊重しながら、[[国際協調]]をし、協力して[[文化圏]]を形成。隣国アジアの友と親しくしながら、共に手を携え、[[国際社会]]の善隣と協力をつくり上げ、[[世界平和]]を模索していく案となっており、西田はこの[[世界大戦]]('''太平洋戦争''')をきっかけにそれぞれの国家が世界史的使命を自覚する意味を説いた。同大学は西田幾多郎らが唱えた本当の意味の大東亜共栄圏実現を教育を通じて体現化する為の拠点として位置づけられており、西田らは国策の策定及び提言の過程で[[日本]]の[[敗戦]]と[[復興|戦後復興]]のことも視野に入れた構想となっていたことが最近の研究で明らかにされている[https://m.youtube.com/watch?v=3SueDdNkMa8 (出典)]。
 
=== 日本軍の攻勢 ===