「日米交渉」の版間の差分

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[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中国大陸]]撤退条件に、[[満州国]]の国家承認、日米通商関係の正常化などの交渉が、[[野村吉三郎]][[在アメリカ合衆国日本国大使館|駐アメリカ大使]]と[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]との間で始められていた。
 
しかし、[[ナチス・ドイツ]]および[[イタリア王国]]との[[日独伊三国同盟]]を締結するにあたっての訪独の帰途の際、[[日ソ中立条約]]を締結した[[松岡洋右]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が「日本の対中政策の全面承認」を主張したために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)7月28日に日本軍は[[フランス]]の[[ヴィシー政権]]の承諾を得た上で[[仏印進駐|南部仏印進駐]]を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は[[石油]]禁輸措置等の日本に対する[[経済制裁]]を発動した<ref>加藤陽子 『戦争まで ―歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社、2016年、379-387頁</ref><ref>[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]、[[森茂樹]] 『アジア・太平洋戦争 (戦争の日本史23)』 吉川弘文館、2007年、13頁</ref>。
 
その後、交渉は再開されて日本は[[近衛文麿]][[内閣総理大臣]]と[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]との日米首脳会談開催(場所:[[アラスカ州]][[ジュノー (アラスカ州)|ジュノー]])を要請したが、ハル国務長官の反対のために立ち消えとなった。