「マルゲリータ・ダウストリア (パルマ公妃)」の版間の差分

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'''マルゲリータ・ダウストリア'''(Margherita d'Austria)または'''マルゲリータ・ダズブルゴ'''(Margherita d'Asburgo, [[1522年]][[12月28日]] - [[1586年]][[1月18日]])は、[[パルマ公国|パルマ]]公[[オッターヴィオ・ファルネーゼ]]の妃。[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の庶子で、母は[[フランデレン]]人のヨハンナ・マリア・ファン・デル・ヘインスト(Johanna Maria van der Gheynst)。[[スペイン語]]名は'''マルガリータ・デ・アウストリア'''(Margarita de Austria)。
 
10月22日、[[アウデナールデ|オーデナルド]]を訪れた父カールは、ある宴会で出会った没落貴族の娘であった母マルガレータ・フアン・ヘースト(通称ヨハンナ)と出会い、ひと時を過ごすと12月12日まで滞在し、いくばくかの金を渡すとともにこの町を去った。<ref>{{Cite book|title=スペインハプスブルク カルロス五世の旅|date=2000/7/1|year=|publisher=JTB|author=上野健太郎}}</ref>
父方の大叔母[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]、のち叔母[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]の下、[[ネーデルラント]]で育つ。[[1536年]]、[[フィレンツェ公国|フィレンツェ]]公[[アレッサンドロ・デ・メディチ]]と結婚するが、1年後に夫が暗殺される。1538年、オッターヴィオ・ファルネーゼと再婚、双子の男児を生むが、育ったのは[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ]]のみだった。
 
翌年生まれたマルガリータは認知され、父方の大叔母[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]、のち叔母[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]の下、[[ネーデルラント]]で育つ。[[1536年]]、[[フィレンツェ公国|フィレンツェ]]公[[アレッサンドロ・デ・メディチ]]と結婚するが、1年後に夫が暗殺される。1538年、オッターヴィオ・ファルネーゼと再婚、双子の男児を生むが、育ったのは[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ]]のみだった。
 
父によって1554年6月6日付で作成された遺言書では、マルガリータを「朕の娘として、大いなる美徳と憐憫の情を以って尊厳し、厚遇するように」と記された。<ref>{{Cite book|title=南の悪魔フェリッペ2世-スペイン黄金の世紀の虚実Ⅱ|date=2006/10/30|year=|publisher=鳥影社|author=伊藤章}}</ref>
 
[[1559年]]、異母弟の[[スペイン]]王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の要請により[[ネーデルラント17州]]の総督となり、反動的属領政策に協力した。しかし、[[改革長老教会|カルヴァン派]]を信仰する現地のブルジョアジーである[[ゴイセン]]同盟の進出、大衆蜂起など反抗が激化、これらを抑えられずに[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]と交代させられた。
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[[1567年]]以後、[[イタリア]]に隠遁した。
 
== 出典 ==
<references /><br />{{先代次代|[[ネーデルラント17州|スペイン領ネーデルラント総督]]|1559年 - 1567年|[[エマヌエーレ・フィリベルト (サヴォイア公)|サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト]]|[[アルバ公]][[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]]}}
{{Normdaten}}