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'''辛亥革命'''(しんがいかくめい)は、[[1911年]]([[宣統]]3年)から[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)にかけて、[[清]]([[中国]])で発生した[[共和]][[革命]]である。名称は、革命が勃発した1911年の[[干支]]である[[辛亥]]に因む。10月に孫文の影響を受けた革命軍が[[武昌起義|武昌]]と[[漢陽区|漢陽]]を武力制圧し、[[黎元洪]]を都督として中華民国軍政府が成立を宣言した<ref name="inoki89to93"/>。清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言した<ref name="inoki89to93"/>。[[1911年]][[12月29日]]、上海で[[孫文]]が[[中華民国]]大総統に選出され、[[1912年]][[2月12日]]に[[溥儀]]が退位し、[[清国]]は滅亡した<ref name="inoki89to93"/>。この結果、アジアにおいて史上初の[[共和制]]国家である[[中華民国]]が誕生した
この結果、アジアにおいて史上初の[[共和制]]国家である[[中華民国]]が誕生した。
 
==概説==
[[清]]が打倒されて古代より続いた[[君主制]]が廃止され、[[共和制]]国家である[[中華民国]]が樹立された。勃発日の[[10月10日]]に因んで、「'''双十革命'''」とも称される。また[[民国革命]]のなかで辛亥革命は'''第一革命'''とされ、[[袁世凱]]に鎮圧された[[第二革命]]、さらには[[護国戦争]]が第三革命として続く。
 
辛亥革命の'''[[スローガン]]'''は「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権(打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等)」。
 
狭義では、[[1911年]][[10月10日]][[夜]]に発生した[[武昌起義]]から、[[1912年]][[2月12日]]の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝(溥儀)]]の退位までの期間を指す。広義では、清末期からの一連の革命運動から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示す。辛亥革命の理念と成果は、[[袁世凱]]を中心とする[[北洋軍閥]]により撤回され、地権平等も実現しなかった。この革命は[[アジア]]で初の[[共和制]]国家を樹立し、古代より続いた[[君主政]]の伝統を終わらせ[[中国]]の歴史に画期をもたらした。辛亥革命により[[元号]]は改められ、[[民国紀元]]が採用された。
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[[1900年]]の義和団の乱で清の威信は失墜し、翌[[1901年]]に締結された[[北京議定書]]により列強の中国進出がより顕著となったことから、清国知識人の間に危機感が広がった。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越えるようになった。当時の留学生の多くが官費留学生であったが、革命思想が留学生間に浸透し、留学生による各種団体が設立され、民主革命の必要性が広く訴えられた。留学していた革命参加者には章炳麟、鄒容、陳天華などがおり、彼らは後に国内革命組織の根幹を構成することとなる。1904年に[[日露戦争]]が勃発すると清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国[[満洲]]地区であった。外国軍隊が自国領土内で戦闘を行う事態に救国の声が高まり、黄興が指導する華興会、陶成章及び蔡元培が指導する光復会を初め、[[江蘇省|江蘇]]の[[励志学会]]、[[強国会]]、[[四川省|四川]]の[[公強会]]、[[福建省|福建]]の[[益聞会]]、[[漢族独立会]]、[[江西省|江西]]の[[易知社]]、[[安徽省|安徽]]の[[岳王会]]、[[広州市|広州]]の[[群智社]]等、各種団体が設立された。これらの革命団体は、相互に提携することは少なく地方色の強い個別運動であったが、清打倒と漢族による共和制による政権樹立を共通の目的としていた。当時は漢族による政権樹立が主眼に置かれたため18省での政権樹立を目指し、東北三省や新疆、チベット及び内モンゴルは当初活動範囲から除外されていた。これらの革命活動は反清を掲げる地下組織と提携する例もあり、[[華興会]]([[湖南省|湖南地区]])は{{仮リンク|袍哥会|en|Gelaohui|label=哥老会}}と、[[光復会 (清国)|光復会]]([[江蘇省|蘇]][[浙江省|浙]][[上海市|滬]]地区)は[[青幇]]と、[[興中会]](華南地区)は[[三合会]]とそれぞれ密接な関係を構築していた。
 
[[日露戦争]]での日本の勝利は、アジアの小国が大国を倒したことで世界中に衝撃をもたらし、清国の[[孫文]]やベトナムからも民族独立をめざす革命家が来日した<ref name="inoki89to93">猪木正道『軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へー [中公新書 1232]』中央公論社、1995年3月25日発行、ISBN 4-12-101232-1、89~93頁。</ref>。
[[1905年]]夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に[[東京]]にて[[中国同盟会]]が組織され、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『[[民報]]』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり[[胡漢民]]、[[汪兆銘]]が執筆。[[康有為]]や[[梁啓超]]が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。
 
[[1905年]]夏、孫文は日本で興中会、華興会、光復会等の各団体を団結させることに成功、8月20日に[[東京]]にて[[中国同盟会]]が組織され<ref name="inoki89to93"/>、「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」を定めた綱領が『[[民報]]』(旧名は華興会機関紙の『二十世紀之支那』、同盟会成立後に改称)上に発表された。同盟会は積極的な宣伝活動を行い、大衆への啓蒙を通じて革命運動を大衆運動へと拡大させていった。『民報』は章炳麟、陶成章らが主筆となり[[胡漢民]]、[[汪兆銘]]が執筆。[[康有為]]や[[梁啓超]]が主編した保皇派機関紙であった『新民叢報』と論戦を繰り広げた。
 
この他の革命団体は下記の通り。
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[[1911年]]3月、武漢新軍内部に文学社が組織された。共進会は[[陸軍第八鎮]]第16協第32標に集中して会員を集め、武昌起義の段階で5,000名の兵士が文学社及び共進会に加入し、新兵総数の3分の1に達した。[[文学社]]と[[共進会]]は新興知識層による革命組織であり、新軍兵士は革命の潜在力となるため、両者は新軍兵士を主要な工作対象とした。
 
[[1911年]]5月9日、清朝は鉄道の国有化政策を実施し、民間資本により建設された[[粤漢線]]、[[川漢線]]の買収を発表した。国有化政策は[[湖南省|湘]]、[[湖北省|鄂]]、[[四川省|川]]、[[広東省|粤]]の民衆の反発を招き<ref name="inoki89to93"/>、四川省が中心となり[[武昌起義#保路運動と四川出兵|保路運動]]<ref> [https://kotobank.jp/word/%E4%BF%9D%E8%B7%AF%E9%81%8B%E5%8B%95-385256 保路運動(コトバンク)] </ref>
が展開された。
 
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皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定められた。
 
日本の西園寺内閣は清と革命軍の妥協政策をイギリスに提案したが、イギリスは[[袁世凱]]と提携し、共和制中華民国を成立させた<ref name="eguchi18to22">[[江口圭一]] 「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座 日本通史 第18巻 近代3』岩波書店、1994年7月28日、ISBN 4-00-010568-X、18~22頁。</ref>。日本陸軍は辛亥革命を進出の機会ととらえ、1912年1月、居留民保護のため[[漢口]]に日本陸軍[[中清派遣隊]] (後に[[中支那派遣隊]])をを漢口に派遣し、1922年7月まで駐屯させた<ref name="sakuraiyoshiki">櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 CiNii]、[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 麗澤大学学術リポジトリ]</ref>。歩兵四個中隊、7000人規模で北京天津の支那駐屯軍よりも大きいものであった<ref name="sakuraiyoshiki"/>。この時ロシア、イギリスも派兵した<ref name="sakuraiyoshiki"/>。
 
1912年2月には{{仮リンク|満蒙独立運動|zh|滿蒙獨立運動|label=第一次満蒙独立運動}}を開始するが<ref name="inoki89to93"/><ref name="zusetsu6">太平洋戦争研究会編、森山康平著『図説 日中戦争』河出書房新社、2000年1月25日初版発行、ISBN 978-4-309-72629-8、6頁。</ref>、イギリスに主導権をとられたことで失敗に終わった<ref name="eguchi18to22"/>。日本陸軍は日英同盟への不信をつのらせ、他方、外務省と日本海軍は日英同盟を重視し、対立した<ref name="eguchi18to22"/>。
 
=== 宣統帝退位 ===