「溝口秀勝」の版間の差分

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'''溝口 秀勝'''(みぞぐち ひでかつ、[[1548年]]([[天文 (元号)|天文]]17年) - [[1610年]][[11月13日]]([[慶長]]15年[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]([[大名]])。[[越後国]][[新発田藩]]の初代藩主。[[溝口氏(新発田藩)|溝口氏]]は[[甲斐源氏]]の[[逸見氏]]の庶流という。官位は従五位下'''伯耆守'''(ほうきのかみ)
 
[[尾張国]]中島郡溝口の出身。幼名を竹千代という。
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[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、越後で[[上杉景勝]](西軍)の煽動した一揆の鎮圧に努めた。その功績により戦後、[[徳川家康]]から所領を安堵されたのである。
 
長井源七郎の娘を妻に迎え、その間に二男五女を儲けた。長男[[溝口宣勝]]は秀勝の家督を継いで第二代新発田藩主となり、次男[[溝口善勝]]も分家して[[沢海藩]]を興した。また長女は[[公家]]の[[中院通村]]([[内大臣]])の室となっている。また五女[[溝口秋香]]は一族の家臣[[溝口盛政]]に嫁いだが、その間に生まれた六女は、[[中山弥次右衛門]]の間に嫁ぎ、この間に[[赤穂浪士]]四十七士のなかで一番の[[剣客]]として知られる[[堀部安兵衛]]が生まれている。(したがって堀部安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人ということになる。)
なお一字違いに[[溝口長勝]]という人物がいるが、[[信濃国]]の[[小笠原氏]]に使えていた人物で秀勝との縁戚はない。
 
なお[[信濃国]][[小笠原氏]]の家臣にも一字違い[[溝口長勝]]という人物がいるが、[[信濃国]][[小笠原氏]]に使えていた人物秀勝との縁戚はなんら関係はない。
 
[[Category:溝口氏|ひてかつ]]