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[[足利義材]]が[[大内氏]]のもとに逃れ、細川政元と三河守護でもある[[細川成之]]が提携し、尾張と遠江の守護である[[斯波義達]]もこれに同調すると、斯波氏と長く敵対関係にあり、遠江の守護を狙う[[今川氏親]]は前将軍足利義材に接近する。このような背景から、松平氏は[[西条吉良氏|吉良氏]]をはじめとした近隣の足利義材派と対立していた。
 
[[永正の錯乱]]により細川氏の援軍が期待できない中で、松平氏は[[今橋合戦|永正三河の乱]]で[[今川氏親]]に敗れた。その後、[[松平信忠]]は父で先代当主の[[松平長忠]]と松平一門により隠居<ref>{{Efn|新行紀一は「松平由緒書にある親類、一門の遺跡を立てなかったに着目し、永正三河の乱で討ち死した[[岩津松平家]]家などの旧領を安城松平家が直領にしたと想定。それが中世武士の慣習に反する行為であり、一門・家臣の離反につながった」としている。」。{{Sfn|平野、P233</ref>|2002|p=233}}。}}させられることになる。
 
時を同じくして幕府では、永正の錯乱により細川家内部の抗争を上洛の好機と見た[[大内義興]]は足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)を伴って上洛する。これに細川澄元と対立する[[細川高国]]が呼応し、[[細川澄元]]は高国・義興らに圧迫され、[[足利義澄]]と共に逃走することになる。
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[[斯波義達]]を隠居に追い込んだ[[織田達勝]]が足利義維派になると、清康は今川・織田両家に敵を回すことになるが、今川氏が幼い当主[[今川氏輝]]である隙に尾張へ出兵を考えるようになる。この出兵により、織田達勝と親しく織田信定の娘を正室に迎え、かつ宗家に従順ではない[[松平信定]]との関係が悪化する。
 
[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])、甲斐の[[武田信虎]]に今川氏を、[[織田信秀]]には[[西美濃三人衆|美濃三人衆]]、内応してきた織田信光と連携して、清康は守山に出兵する<ref>三河物語では1万余、松平記では雑兵1000余騎。</ref>。この出兵に対し老臣は諫めた<ref>[[朝野旧聞裒藁]]によると[[織田信光]]、大給[[松平親乗]]、長沢松平上野介、小河の[[水野信元]]は松平信定の婿であり、長陣は危険とするのが理由としている</ref>。
 
そして、守山布陣の翌[[12月5日]]早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを[[阿部正豊]]は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺したとされる。正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は岡崎に撤退する。
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清康の家臣である[[阿部定吉]]が、親織田氏勢力に加わるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。{{要出典|date=2018年3月|}}このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
 
風説を流布したのは、後に織田信秀の妹を自分の長男・清定の妻に迎えさせてその縁戚となった[[松平信定]](清康の叔父、[[桜井松平家]])であったとされるが、このときは、出陣していなかった<ref>{{Efn|平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする。 {{Sfn|平野|2002|pp=281-283}}。またP281 - P283</ref><ref>平野明夫は松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする。 {{Sfn|平野、P300</ref>|2002|p=300}}。}}
朝野旧聞裒藁によると清康がまだ安城にいた頃、松平信定が清康の家臣・落合嘉兵衛を咎めたところ、落合の答弁が見事で清康は500貫文加増したという<ref>{{Efn|この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している{{Sfn|平野、P294 |2002|pp=294- P295</ref>295}}。}}
 
天文6年(1537年)6月に、戦国大名・[[今川氏]]や、[[吉良氏]]の介入があったためか、信定は、岡崎城を退去して、桜井城に戻った。
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翌年、足利義晴派の那古野城主[[今川氏豊]]が織田信秀に攻められると織田氏の脅威が増すことになる。
松平氏では広忠の岡崎入城に功があり、広忠にとって唯一の血縁の叔父[[松平信孝]]と宗家家臣団との権力争いが起き、松平信孝は織田を頼ることになる。
一度は信定に従った酒井左衛門尉、大原左近右衛門、今村伝次郎は広忠に[[石川清兼]]、[[酒井正親]]の切腹を迫るも受け入れなかった。そこに[[松平忠倫]]、信定の子[[松平清定]]が織田に通じて敵対し酒井左衛門尉、大原左近右衛門、今村伝次郎も続いた<ref>{{Sfn|平野、P326</ref>|2002|p=326}}。[[渥美郡]]の[[戸田氏]]・[[宝飯郡]]の[[牧野氏]]も織田氏の支援を受けながら再び自立傾向を見せ始める。
この状況に独力では対抗できず、[[徳川家康|竹千代]]を人質として[[今川氏]]に差し出すことで加勢を得ることになった。
 
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=平野明夫|title=三河松平一族』(|publisher=新人物往来社|year=2002年)ISBN |isbn=4-404-02961-6|ref={{SfnRef|平野|2002}}}} C0021
 
== 関連項目 ==