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博多は文化の受け入れ窓口でもあった。1195年 [[栄西]]が博多に日本初の[[禅寺]]である[[聖福寺 (福岡市)|聖福寺]]を開いたが、このときも博多綱首らが物心両面の援助をしている。栄西は[[南宋]]から[[茶]]を持ち帰り喫茶の習慣を日本中に広めたことでも知られるが、「[[饅頭]](まんじゅう)」「[[饂飩]](うどん)」などの日本人になじみ深い食物が日本に入ってきたのもこの時期の博多を通じてであった。
 
[[室町時代]]を通じて博多は[[年行司]]と呼ばれる12人の[[豪商]]の会議によって市政が運営され、日本史上において初めての[[自由都市]]であった。[[]] ([[堺市]]) (堺は36人の[[会合衆]]によって市政が運営された)と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[戦国大名]]の争奪の対象となり、[[豊臣秀吉]]と[[島津義久]]の戦いの際に[[島津氏|島津軍]]によって焼き払われた。
九州平定後、1587年7月24日(天正15年6月19日)に[[箱崎 (福岡市)|筑前箱崎]]において[[豊臣秀吉]]は[[バテレン追放令]]を発令した。