「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

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'''ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス'''(<small>[[古典ラテン語]]</small>:{{Lang|la|'''Gaius Flavius Valerius Constantinus'''|ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス}}、[[270年]]代前半の[[2月27日]]-[[337年]][[5月22日]])は、[[ローマ帝国]]の[[ローマ皇帝|皇帝]](在位:[[306年]]-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、[[元老院 (ローマ)|元老院]]からマクシムス(''Maximus''、偉大な/大帝)の称号を与えられた。
 
ローマ帝国の皇帝として初めて[[キリスト教]]を公認信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上最も重要な人物の1人であり、[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[東方典礼カトリック教会]]では、[[聖人]]とされている。記憶日は、その母太后[[聖ヘレナ]]と共に6月3日。[[日本正教会]]では正式には「[[亜使徒]]聖大帝コンスタンティン」と呼称される。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市[[コンスタンティノープル]](現:[[イスタンブル]])は、その後[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。
 
== 概略 ==
コンスタンティヌス1世は[[モエシア]]属州のナイッスス(現:[[セルビア]]領[[ニシェ]])でローマ帝国の軍人[[コンスタンティウス・クロルス]]の息子として生まれた。その後、ローマ帝国において[[テトラルキア]](四帝統治)体制が形成されるられていた時代に西の[[カエサル (称号)|副帝]](カエサル)を務め、後に[[アウグストゥス (称号)|正帝]](アウグストゥス、在位305年-306年)となった人物。父が[[ブリタンニア]](現:[[イギリス]])あっ死亡し後、コンスタンティヌス1世は306年に父の軍団を引き継いで306年に正帝を自称し、[[312年]]に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り(310年に[[マクシミアヌス]]、312年に[[マクセンティウス]]、324年に[[リキニウス]]といった対立皇帝たちとの内乱に勝利して[[324年]]に)、ローマ帝国を再統一した。
 
統一さ[[3世紀の危機]]と呼ばる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていローマ帝国では、長期にわたって内政再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を終息させたディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は新しい安定した統治機構の形成を模索各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレティアヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどディオクレティアヌスが始めた改革してこれ引き継いで完成させた。内政面では、ディオクレティアヌス帝までずっと盛んになる一方だった[[エクィテス]](''equites''、騎士)身分の重職への進出に歯止めをかけ、かわりに形骸化しつつあった[[元老院 (ローマ)|元老院]]を拡充させ、騎士身分や地方有力者を多数元老院議員に任命するとともに、これまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放した。これにより、経済・政治的に一大勢力を築いてきた騎士身分は栄達の道を閉ざされ、これ以降歴史から姿を消していくこと原因となった<ref>『新・ローマ帝国衰亡史』p57 南川高志 岩波新書、2013.5 ISBN 4004314267</ref>。経済・社会面では、品質の安定した[[ソリドゥス金貨]]を発行した。この金貨はギリシア語で[[ノミスマ]]と呼ばれ、その後地中海世界で最も信頼される貨幣として流通することになる。大事業を次々起こし、彼に由来する多くの都市や建造物が残されている。これを支えるために多額の財政出動が必要となったことから、徴税に力が入れられ、[[コロヌス]]の移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った<ref name="長谷川樋脇2010p118">[[#長谷川・樋脇 2010|長谷川・樋脇 2004]], p. 118</ref>。これらの施策はその後の西欧中世社会の原型の一部をも形作った<ref name="長谷川樋脇2010p118"/>。
 
宗教の面では、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教に信教の自由与えて公認庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の[[地中海世界]]、[[ヨーロッパ]]の歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『[[ミラノ勅令]]』はしばしば'''ローマ帝国においてキリスト教を公認'''したものとみなされる。コンスタンティヌス1世自身がキリスト教に好意的であった理由や、の改宗の動機ははっきりとはわかっていない。晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受けた。[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、[[ドナトゥス派]]や[[アリウス派]]のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。[[325年]]にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議([[第1ニカイア公会議]])を招集した。この会議とその後の経過によってニカイア派([[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシウス派]])が正統の地位を占めていく。
 
優秀な軍人であったコンスタンティヌス1世は軍事面でも多くの改革を実施した。この改革によって[[プラエトリアニ|近衛軍団]](''praetorianae''、プラエトリアニ)を解体され、コミタテンセス(''Comitatenses''、野戦機動軍)と呼ばれる中央軍と、河川監視軍(''Ripenses'')や辺境防衛軍(''Limitanei'')といった国境軍を設置されたことが伝わる。一般的にはこの国境軍ははその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍は普段は帝国の属州の都市に常駐して、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力を担うという体制であったとされている。これは[[軍人皇帝時代]]より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の国境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化した<ref>エイドリアン・ゴールズワージー著、遠藤利国訳『図説古代ローマの戦い』東洋書林 2003年5月30日</ref>。また、帝国東方の都市である[[ビュザンティオン]]に自らの名前を与えて[[コンスタンティノープル]](コンスタンティノポリス、現[[イスタンブル]])と改称し大規模な都市に改造し、[[330年]]にはこの都市の落成式が執り行われた。コンスタンティヌス1世による内政の整備、キリスト教の拡大、コンスタンティノープルの建設といった事業は、後の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の前提を作り上げた。
 
コンスタンティヌス1世は337年にニコメディア近郊の離宮で死去した。その遺体はコンスタンティノープルでキリストの12人の使徒たちに準ずる存在として棺に納められた。晩年にはキリスト教の[[洗礼]]を受け、[[正教会]]ではキリスト教徒であった母とともに「[[亜使徒]]」の称号を付与されて尊崇された。
 
== 生涯 ==
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対外的には統一後もコンスタンティヌス1世は熱心に軍事遠征を繰り返していた。328年に息子コンスタンティウス2世と共に[[ライン川]]方面で[[アレマン人]]と戦って勝利を収め、332年にはドナウ川で[[ゴート人]]を降伏させた。334年にはダキア方面で[[サルマタイ]]を破った<ref name="スカー1998p275">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 275</ref>。東方では[[アルメニア王国|アルメニア]]王[[ティグラネス5世]]が[[サーサーン朝]]の[[シャープール2世]]によって廃立され同国が占領されたことをきっかけにサーサーン朝との関係が悪化した<ref name="尚樹1999p30"/>。アルメニアの親ローマ派がアルメニアをローマ帝国に献上することを申し出たことを受けて、コンスタンティヌス1世は甥の[[ハンニバリアヌス]]をアルメニア王とした。この処置は将来のローマ帝国とサーサーン朝の戦争の原因となったが、実際に戦端が開かれるのはコンスタンティヌス1世死後のこととなる<ref name="尚樹1999p30"/><ref name="ランソン2012p36"/>。コンスタンティヌス1世の統治最後の3年間はサーサーン朝への遠征の準備に費やされ、ペルシア人をキリスト教に転向させ、また彼が[[イエス・キリスト|キリスト]]と同じように[[ヨルダン川]]で[[洗礼]]を受ける計画が立てられた<ref name="スカー1998p276">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 276</ref>。しかし337年の復活祭の直後、コンスタンティヌス1世は体調を崩して倒れ、この計画を実行に移すことは不可能となった<ref name="スカー1998p278">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 278</ref>。神学者[[ヒエロニムス]]が伝えるところによると、死期を悟ったコンスタンティヌス1世は亡くなる少し前に[[洗礼]]を受けた。当時の風習では、年を取るか死の間際になってから洗礼を受けるのが一般的だった<ref group="注釈">この時代には幼児の洗礼は未だ習慣化されていなかった(幼児洗礼は、初めは非常時のみ行われていた。この頃には幼児洗礼を受けるものも増えていたが、これはキリスト教徒として生きるという重みを持った選択というよりは、将来キリスト教にしたがう予定という意味合いだった)。自らの意思で洗礼を受ける成人は、神の贖罪により身を守るという信心をはっきりと宣誓した。聴衆に洗礼を促す聖職者と洗礼を放棄した者との板ばさみになったりして、様々な理由から、年をとるか死の間際になるかまで洗礼を待つ者もいた(Thomas M. Finn (1992), ''Early Christian Baptism and the Catechumenate: West and East Syria'' および Philip Rousseau (1999). "Baptism", in ''Late Antiquity: A Guide to the Post Classical World'', ed. Peter Brown)。</ref>。そして同年の聖霊降臨祭の日(5月22日)にニコメディア近郊の[[アンキュロナ]]の離宮で死亡した<ref name="スカー1998p278"/>。
 
コンスタンティヌス1世の遺体は紫衣に包まれた金棺に納められてコンスタンティノープルに運ばれ、高官たちの礼拝を受けた後に諸使徒聖堂に安置された<ref name="スカー1998p278"/><ref name="尚樹1999p48">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 48</ref>。伝統的な異教的葬儀ではなくキリスト教の作法による葬儀が行われ、キリストの12人の使徒たちの石棺(遺体は安置されていないハリボテであったが)の中央に13番目としてコンスタンティヌス1世の棺が安置された<ref name="スカー1998p278"/>。これは彼のキリスト教信仰を明白に示すものであり、その業績とキリスト教公認とによって死後も「大帝」の贈り名とともに記憶され、また「使徒に等しき者(亜使徒)」として列聖された<ref name="尚樹1999p48"/>。ローマ市は皇帝が埋葬地としてローマではなく新たな都コンスタンティノープルを選んだことに反発した。そしてコンスタンティヌス1世がキリスト教徒であることが周知であるにもかかわらず、ローマの元老院はそれまでの皇帝と同じように彼自身にローマの神々の一員たる名誉を与えた<ref name="スカー1998p279">[[#スカー 1998|スカー 1998]], p. 279</ref>。
 
=== 後継者 ===