「近衛府」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
27行目:
: 左右に各2~4名。四等官の次官(スケ)に相当し、中将も「スケ」であるので「すな(少)いスケ」と呼ばれた。天平神護元年([[765年]])2月3日、近衛府の設置とともに、[[正五位下]]の官位相当。以後、定着する。当初は1名だったが後に増員され、天応元年([[781年]])6月1日に員外近衛少将が廃止された際に定員2名となる。その後、九世紀半ばには[[権官]]が設置されて正官2名・権官1名の計3人となり、十一世紀初めには左右各4人在籍する例が見られるようになった。十二世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各7~8名在籍する例も見られるようになる<ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。後には正員は置かれず、[[権官]]のみとなる。中将とほぼ同じ職掌。[[五位蔵人]]を務める近衛少将は「蔵人少将」と呼ばれた。五位少将が四位に叙された際に少将を止めず「少将如元」とされた場合など、四位の位階でこの官を務める者は「四位少将」と呼ばれた。例は少ないが三位に叙されても少将のままでいる場合は「三位少将」と称した(平安時代では[[藤原道長]]、[[藤原頼通]]、[[藤原忠家]]、[[藤原基実]]の四名が三位少将を経験している)。二位の位階でこの官に就く場合もあったとされるが、平安時代においてはその例は皆無であり<ref>『公卿補任』</ref><ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>、鎌倉時代に入り[[正三位]]右少将[[九条教実|藤原教実]]が承久三年正月五日に[[従二位]]に叙されたのが初例である<ref>『公卿補任』</ref>。羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将、亜将、虎賁中郎将といった唐名がある。左近衛少将・右近衛少将はそれぞれ省略して「左少将」・「右少将」とも呼ばれる。
 
近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、'''近衛次将'''(このえのじしょう)とも称した。近衛次将は天皇側近の官職であり、[[公卿]]への昇進コース(典型的なコースは、[[侍従]]→[[兵衛府|兵衛佐]]→'''近衛少将'''→'''近衛中将'''→[[参議]]。少将から[[弁官|少弁]]や[[弁官|中弁]]に転じ、弁官で昇進して[[参議]]に至るコースもあった)としても重要であったため、上流貴族の子弟の[[殿上人]]が多く任じられた。10世紀末から十一11世紀には[[藤原氏]]忠平流・[[宇多源氏]]・[[醍醐源氏]]・[[村上源氏]]など「[[公達]]」とされる家格の上流貴族の子弟でほぼ独占されるようになった。鳥羽院政期以降には藤原氏顕季流・同通憲([[信西]])流・[[伊勢平氏|桓武平氏忠盛流]]など本来は「[[諸大夫]]」の家格である[[院近臣]]家出身者からも近衛次将に任じられる者が現れるようになった。[[承徳]]2年([[1098年]])に左右近衛次将の定員は合計各8名とされたが、院政期後半(特に後白河院政期)には実際に在籍する人数が増大し、[[安元]]元年(1175年)には次将の合計が左右合わせて28人の例が出現する<ref>『近衛府補任』(続群書類従完成会)</ref>。[[堂上家]]出身者で[[公卿]]となる者は侍従・兵衛佐・近衛次将を歴任する例が多く、[[摂家]]・[[清華家]]・[[大臣家]]・[[羽林家]]の家格の者が近衛次将を経て公卿に昇った。
 
ここまでが幹部職員で、これ以下を近衛舎人と呼ぶ。