「引田天功 (初代)」の版間の差分

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==人物==
[[神奈川県]][[横浜市]]生まれ。[[日本大学高等学校・中学校|日本大学高等学校]]、[[日本大学]][[工学部]]卒業。[[1968年]]から[[1975年]]まで7回にわたって[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の特番(主に[[木曜スペシャル]]の枠内)として放送された脱出イリュージョンは「死の[[ジェットコースター]]大脱出」、「死の火煙塔大脱出」「死の[[水道管]]大脱出」「油地獄水面炎上大脱出」といった従来のマジックからは考えられないほどのスケールの大きさで毎回高視聴率を記録し、日本中に脱出ブームを巻き起こした。脱出のアイディアは自身が尊敬する“脱出王”[[ハリー・フーディーニ]]の脱出劇にヒントを得たものであり、大量の[[火薬]]をセッティングした大掛かりなパフォーマンスであった。彼はこれらの脱出を成功させるため、練習中に瀕死のアクシデントを経験している。脱出の際の爆薬の威力は凄まじく音と熱と煙に相当悩まされたとも自身の著書に記している。その人気から、本業以外では[[1969年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の[[テレビドラマ]]「[[フラワーアクション009ノ1]]」にレギュラー出演もしている。
 
テレビメディアと組んだ大規模な脱出イリュージョンの日本におけるパイオニアとして、日本のマジック界をリードする存在だったが、中年期より[[心筋梗塞]]など重度の[[心臓疾患]]に苦しんだ。晩年は[[催眠術]]パフォーマンスにも取り組むなど身体に負担をかけず、かつ視覚的にインパクトのある芸も取り入れながら、一方では「[[ナイアガラ瀑布]]脱出」など、新たな脱出イリュージョンを構想していたともいわれていた。しかし、自身の病状の進行等の事情から果たせず、[[1979年]][[大晦日]]に死去。{{没年齢|1934|7|3|1979|12|31}}。「引田天功は脱出マジックに失敗して命を落とした」「煙を吸い込んで、肺を痛めたのが早世につながった」との噂もたったが、公式の死因発表は心臓病死である。その訃報は出演予定だった翌日([[1980年]][[元日]])朝の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の特別番組『[[初詣!爆笑ヒットパレード|初詣爆笑ヒットパレード]]』<ref>{{Cite web |url=http://www.geocities.jp/jotx12ch/n550101mc.html|title=なつかし番組表 毎日新聞(東京版)昭和55年1月1日火曜日朝刊|publisher=想い出の東京12チャンネル |date=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080522122320/http://www.geocities.jp/jotx12ch/n550101mc.html|archivedate=2008-05-22|accessdate=2014-04-23}}</ref>(この番組内で引田の脱出イリュージョンが生放送されることになっていた)で、司会の[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]によってお茶の間にも伝えられた。引田は横浜市緑区長津田の[[大林寺 (横浜市)|大林寺]]に葬られた<ref name="ハマ線">{{Cite book|和書|title=ハマ線地名あれこれ「横浜編」|author=相沢雅雄|publisher=株式会社230クラブ新聞社|year=1996|pages=188}}</ref>。
 
[[1976年]]から引田に師事し、[[1977年]]には引田の代役で「空中ケーブルからの大脱出」をこなしていた若手タレント'''朝風 まり'''が引田の死後、後援会の要請で[[1980年]][[12月15日]]に[[引田天功 (2代目)|二代目・引田天功]]を襲名、プリンセス・テンコーの別名で活躍している。