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秋丸機関は[[仮想敵国]]の経済戦力を詳細に分析して最弱点を把握するとともに、日本の経済戦力の持久度を見極め、攻防の策を講じるために、ブレーンとして[[経済学者]]を集め、そのほかに各省の少壮[[官僚]]、[[満鉄調査部]]の精鋭分子をはじめ各界のトップレベルの知能を集大成し、英米班(主査・[[有沢広巳]])、独伊班(主査・[[武村忠雄]])、日本班(主査・[[中山伊知郎]])、ソ連班(主査・宮川実)、南方班(主査・[[名和田政一]])、国際政治班(主査・[[蝋山政道]])を立ち上げた<ref>牧野邦昭『戦時下の経済学者』中央公論新社、2010年、pp.26-28</ref>。各班15名から26名ぐらいで総勢百数十名から二百名程度の組織で、有沢広巳が実質上の研究リーダーであった。潤沢な予算([[機密費]])を使って、各国の軍事・政治・法律・経済・社会・文化・思想・科学技術等に関する内外の図書、雑誌、資料、約9000点を収集し、それらを整理・分析して、各国経済抗戦力判断に関する「抗戦力判断資料」、個別の経済戦事情調査の「経研資料調」、外国書和訳の「経研資料訳」など約250の報告書を作成した。2015年時点では「独逸経済抗戦力調査」、「英米合作経済抗戦力調査(其一)」、「英米合作経済抗戦力調査(其二)」など約100の報告書が現存している<ref>林、2015年、pp.44-47</ref>。
[[独ソ戦]]開始直後の[[1941年]](昭和16年)7月、秋丸機関はこれらを集大成して、「英米合作の本格的な戦争準備には一年余りかかる一方、日本は開戦後二年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。この間、英国の属領・植民地への攻撃、[[インド洋]](および[[大西洋]])における制海権の獲得および潜水艦による海上輸送の遮断の徹底によって、まず輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を屈服させ、米国の継戦意思を失わせて戦争終結を図り、同時に英蘭等の植民地である南方圏([[東南アジア]])を自足自給圏として取り込み維持すべし」という対英米戦争戦略を、[[杉山元]][[参謀総長]]ら陸軍首脳に最終報告を行った。杉山参謀総長は「調査・推論方法は概ね完璧」と総評した<ref>林、2015年、pp.125</ref>。その研究結果は陸軍にとって意に反したものではなかったと思われる<ref name="makino2">牧野邦昭「『英米合作経済抗戦力調査(其二)』(陸軍秋丸機関報告書) : 資料解題」『摂南経済研究』5(1・2)、2015年3月、pp.107-116</ref>。
『石井秋穂回想録』によると、[[1941年]]4月17日に[[大本営]]海軍部で決定された「[[対南方施策要綱]]」は、秋丸機関や陸軍省[[兵備課]]で行われた研究を参考にして作成され、秋丸機関は、陸軍省軍務局軍務課高級課員の[[石井秋穂]]大佐に対し、研究結果を何度も報告していたとされている。その石井大佐が9月29日に大本営陸海軍部にて決定された「[[対英米蘭戦争指導要綱]]」や11月15日に[[大本営政府連絡会議]]にて決定された「[[対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案]]」の策定に参画していたこと、また「対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」と『英米合作経済抗戦力調査(其一)』は、両資料とも、海上遮断による経済封鎖で経済的に脆弱性のあるイギリスを敗戦に追い込み、その結果アメリカの反戦気運を期待して外交交渉などによる終戦を提案していることなど、内容に共通項が多いことから、秋丸機関は日米開戦に影響力を有していたと推測される<ref>斉藤伸義『アジア太平洋戦争開戦決定過程における「戦争終末」構想に与えた秋丸機関の影響』『史苑』 60(1), 167-184, 1999-10-30</ref>。
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