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[[1976年]]7月、田中は[[逮捕]]され[[裁判]]が始まると、それまで今[[太閤]]、平民宰相とさんざん持ち上げてきた世の中は田中に掌を返した。とりわけ、[[マスコミ]]は掌を返したなどという生易しいものではなく、手厳しく、田中に筆誅を加えた。早坂は、新聞や週刊誌の記事を見る度にカッカきて本当に許せないと思い、マスコミ対応もぞんざいとなった。「早坂は傲岸不遜が[[スリーピース・スーツ|三つ揃い]]を着て歩いているようなものだ」とマスコミから言われたのはこの頃である<ref>『田中角栄 頂点をきわめた男の物語』p.252 - 253</ref>。
 
[[1985年]]2月に[[竹下登]]が派中派の[[創政会]]を結成。田中は事態収拾に動くが、その渦中に脳梗塞で倒れ[[東京逓信病院]]に担ぎこまれる。ここへの入院を主張したのは早坂だった。だが、長女の[[田中眞紀子|眞紀子]]は、[[医者]]や[[看護師]]に共産党員や[[創価学会]]員が多いので外に病状がもれる心配があるとこれを渋るが、早坂がそれを押し切り入院させた<ref>『田中角栄伝説』p.215</ref>。田中の回復はほぼ絶望的で、病院側に無理やり頼んで、外部には軽い[[脳卒中]]と発表したが、所詮、当てもない時間稼ぎの苦肉の策であった<ref>『田中角栄とその時代』p.236</ref>。そうこうしている内に、田中の治療方法を巡って田中家と病院側、早坂の意見の食い違いが表面化し、早坂は田中家から斬られ、田中の逮捕後、[[砂防会館]]から隣のイトーピア平河町ビルあっ移し<ref>『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭 講談社+α文庫 』p.359</ref>、田中角栄事務所を閉鎖。同年7月、[[後藤田正晴]]や[[梶山静六]]らからの支援を得て[[麹町]]のマンションに事務所を開き、政治評論家に転身した<ref>『田中角栄とその時代』p.141</ref><ref>『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭 講談社+α文庫 』p.431 - 432</ref>。
 
事務所を開き、真っ先に取り組んだのが、何くれとなく世話になった多くの人々への挨拶状送付で、その総数は千通を超えたが、いの一番に返信をくれたのが[[福田赳夫]]であった。その趣旨は「早チャン、長い間、本当にご苦労さん。疲れたろう。一息入れて、がんばれ」であった。
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== 参考文献 ==
* 中澤雄大『角栄の「遺言」 「田中軍団」最後の秘書 朝賀昭 講談社+α文庫 』[[講談社]]、2015年。ISBN 4062816369
* [[佐高信]]『田中角栄伝説 (光文社知恵の森文庫) 』[[光文社]]、2016年。ISBN 4334787045
* 早坂茂三『田中角栄とその時代 (PHP文庫)』[[PHP研究所]]、2016年。ISBN 4569766307