「南京事件」の版間の差分

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== 歴史上の「南京大虐殺」 ==
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[[松本健一]]は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの[[固有名詞]]であり、「歴史的に定着している言葉」であるという<ref name=hamahi>秦郁彦、東中野修道、松本健一「決定版「南京事件」最新報告は「捕虜処断」をどう見るか」『諸君!』 2001年2月号,pp128-144.</ref>。また[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]{{要曖昧さ回避|date=2019年4月}}によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった<ref name=kobungya/>。歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがあると指摘されている<ref>出典は以下の各脚注を参照</ref>。
#[[王敦の乱]](322年〜324年)<ref name=kobungya/>
#[[侯景|侯景の乱]]([[549年]])<ref name=hamahi/>。[[東魏]]の[[侯景]]は[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]の南北朝時代に、南京(当時、[[建康 (都城)|建康]])を包囲し、陥落後「大虐殺」を行う<ref name=hamahi/><ref>侯景の乱については[[司馬光]]『[[資治通鑑]]』梁紀巻161-巻164。[[梁書]]本紀武帝。[[南史]]本紀第7 武帝下。吉川忠夫 『侯景の乱始末記』中公新書,1974年。竹田龍兒「侯景の乱についての一考察」三田史学会,史学 Vol.29, No.3 (1956. 12) {{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。
#[[太平天国の乱]]での南京大虐殺 ([[1853年]])。[[キリスト教]]を「拝上帝教」と解釈し、漢民族国家の再興を目指した[[洪秀全]]は南京占領時に、[[清国]]兵([[満州族]]兵)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われた<ref name=hamahi/>。14年間の乱の犠牲者総数は2000万人を超える。
#[[天京事変]]での南京大虐殺 ([[1856年]])<ref name=hamahi/>。太平天国軍の内紛([[天京事変]])で洪秀全が[[楊秀清]]軍を「大屠殺」した<ref name=hamahi/>。
#[[天京攻防戦]] ([[1864年]]) - 南京(当時、天京)における清軍([[曽国セン]]指揮)・[[湘軍]]と[[太平天国]]軍との戦争<ref name=s/><ref name=sek/><ref name=kobungya/>。[[湘軍]]の[[趙烈文]]は、老人や2、3歳の幼児も虐殺され、40歳以下の若い婦女は拉致され、20万〜30万の犠牲者が生じたと記録している<ref name=s>趙烈文『能静居士日記』、郭廷以([[中央研究院]]近代史研究所所長)「近代中國史綱」(中文大學出版社1979、香港中文大學2008,pp169~170で引用,蘇瑞鏘「[http://b5.secretchina.com/news/07/02/27/185710.html?%E8%B6%85%E8%B6%8A%E2%80%9C%E5%9C%8B%E6%81%A5%E2%80%9D%E2%80%95%E2%80%95%E5%BE%9E%E2%80%9C%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%AE%BA%E2%80%9D%E8%AB%87%E8%B5%B7 超越“國恥”――從“南京大屠殺”談起]」看中国2007-02-27 04:53。蘇瑞鏘 《彰中人》187期,國立彰化高中,2001年</ref><ref name=sek>石平『中国大虐殺史―中国人はなぜ人殺しが好きなのか』2007年。[[天京攻防戦]]についてはp.182</ref>。蘇瑞鏘は「湘軍版南京大虐殺」であるとし<ref name=s/>、また[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]{{要曖昧さ回避|date=2019年4月}}は、天京攻防戦での掠奪や放火の記録は、中国政府の主張する「日本軍による大虐殺」と類似していると指摘している<ref name{{refnest|group=kobungya>渡部昇一・黄文雄「中韓「反日」勢力なら論破できる」諸君!2004年(平成16年)8月号,pp144-152."注釈"|黄文雄は「中国側の主張している内容は、中国歴代王朝が行ってきた虐殺の歴史をただ復唱しているだけなんです。中国では長年にわたり、王朝が交代するたびに、[[北京]]、[[西安]]、[[開封]]、[[揚州]]と大虐殺を繰り返してきました。南京では、[[東晋]]の時代に[[王敦]]という武将が行っています。それ以降も大虐殺を繰り返し、近代最大のものは、[[曽国藩]]の弟で[[曽国セン]]という武将によるものです。三力月ぐらい略奪したり、火を付けたりしている。非常に詳しい記録が残っているのですが、それが「南京大虐殺」における今の政府の発表とそっくりなのです。」と述べている<ref name=kobungya>[[渡部昇一]]・[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]「中韓「反日」勢力なら論破できる」[[諸君!]]2004年(平成16年)8月号,pp144-152.</ref>。}}
#[[第二革命]]での南京大虐殺 ([[1913年]])<ref name=hamahi/>。[[辛亥革命]]の後に行われた清朝復活を企図した[[張勲 (清末民初)|張勲]]による[[第二革命]]への弾圧では、国民党兵が数千殺され、日本人3人も間違えられて殺害された<ref name=hamahi/>。[[時事新報]]は当時「南京虐殺事件」と報じた<ref name=ji1913>時事新報 1913年(大正2)9月6日「南京虐殺事件」,神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(14-079)</ref>。当時、[[北一輝]]が南京を訪問し、虐殺の実態を『支那革命外史』で記す<ref name=hamahi/>。[[曹汝霖]]は張勲のことを「あの南京大虐殺をやった男」とんだ<ref name=hamahi/>。
#1927年に蒋介石軍が南京占領後に外国[[領事館]]や市民に暴行・強姦を行った[[南京事件 (1927年)|南京事件]]<ref name=hamahi/>。