「コンスタンティヌス1世」の版間の差分

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近衛長官と道長官の訳語の問題について、田中 2010を元に少し説明を追加。
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==== 騎士身分と元老院身分 ====
[[共和制ローマ|共和制]]期以来、ローマの国家機構において主導的地位にあった[[元老院]]は3世紀の危機を通じて皇帝が前線に常駐するようになると、次第に国政の中枢から外れていった<ref name="井上2015p190">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 190</ref>。これは元老院身分(''Ordo senatorius'')の上級官職者が軍人としての経歴を持っておらず、むしろ文人志向を強め軍事を忌避する傾向があったため、継続的な外敵の侵入と内乱の中で、より実戦能力のある人材が統治機構に必要であったことによる<ref name="井上2015pp144,190">[[#井上 2015|井上 2015]], pp. 144, 190</ref>。また、行政機構が皇帝と共に前線にあったため、物理的にも元老院議員と行政機構の関わりが薄くなっていた<ref name="井上2015p190"/>。変わって軍才を見込まれた人々が皇帝たちによって要職に騎士身分([[エクィテス]]、''Equites'')として登用されるよた。こになり、して属州総督など多くの上級官職が騎士身分の人間で占められるようになっていた。り、彼らはその後婚姻によって結びつき新たな軍事貴族階層を形成していた<ref name="井上2015p190"/><ref name="尚樹1999p36">[[#尚樹 1999|尚樹 1999]], p. 36</ref>。彼らは騎士という身分([[エクィテス]]、''Equites'')として登用された。この地位は共和制以来の伝統を持っていたが元老院身分と異なり元来は世襲のものではなく、この頃には近衛長官に与えられるエミネンティッシムス級(''Vir eminentissimus''、侯爵<ref name="豊田1994p80注釈10">和訳は[[#豊田 1994|豊田 1994]], p. 80、注釈10番による。</ref>)を最高位とする5段階の爵位が役職に応じて皇帝から贈られていた<ref name="尚樹1999p36"/>。
 
コンスタンティヌス1世は各地の総督や上級官職に再び元老院身分に再び開放した<ref name="井上2015p195">[[#井上 2015|井上 2015]], p. 195</ref>。そして「元老院議員が担当する」官職に非元老院議員が就任した時には、その人物に元老院身分が付与されたため、人員自体が大幅に拡充された。このことは元老院身分の構成員に変化をもたらした<ref name="井上2015p195"/>。従来騎士身分にいた軍事貴族たちが元老院身分(新貴族階級)へと参入していったが、形式的には同じ元老院身分であった両者は質的に統合されることはなく、さらに従来元老院身分の爵位であったクラリッシムス級(''Clārissimus'')を頂点とする爵位の価値が暴落して意味をなさなくなって行き、元老院身分の新たな爵位制度が準備された<ref name="尚樹2005p38">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 38</ref>。
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コンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れた時、既にキリスト教会内部では分裂が生じていた。真っ先に問題になったのは北アフリカにおける分裂であった。ディオクレティアヌスによる大迫害の時代、皇帝からの圧力に対してキリスト教の司教たちがとった対応は様々であった。多くは皇帝に対して表立って反抗するような真似はしなかったが、面従腹背の姿勢で応ずるものもおり、またこうした逃げ腰の姿勢を批判する厳格主義者たちがいた<ref name="ジョーンズ2008p109">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 109</ref>。こうして北アフリカでは信念を曲げる行為を批判する厳格主義者たちと、不必要に殉教を求める行為を批判する穏健派は互いに批判を強め、厳格主義者たちは穏健派(主流派)のカルタゴ司教[[カエリキアヌス]]を承認することを拒否し、独自に[[マヨリヌス]]をカルタゴ司教に選出し、それぞれに支持者を集めて二つの陣営へと分裂していた<ref name="ジョーンズ2008pp109_111">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 109-111</ref><ref name="尚樹2005pp43_44">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], pp. 43-44</ref>。
 
コンスタンティヌス1世はこの問題に介入した。ローマ司教(教皇)[[ミルティアデス (ローマ教皇)|ミルティアデス]](またはメルキアデス)に対して自分が教会の分裂を欲しておらず双方当事者からの聞き取りを行って裁判を実施し解決を図るよう指示を出し、その結論を出す役にガリアから招集した司教を任命した<ref name="ジョーンズ2008pp111_112">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], pp. 111-112</ref><ref name="尚樹2005p44">[[#尚樹 2005|尚樹 2005]], p. 44</ref>。ミルティアデスは教会の問題が司教たちによる会議([[公会議]])によって決定されるべきという立場を取り、コンスタンティヌス1世が任命した司教に加えてイタリアから15人の司教を集めた。以後コンスタンティヌス1世はそれを受け入れ、教会の問題は公会議によって決定されることが慣行になった<ref name="ジョーンズ2008pp111_112"/>。しかし最終的に公会議を招集する権利やその結論に対して上位者として裁定を行う権利を放棄することもなかった<ref name="ジョーンズ2008pp111_112"/>。
 
並立する2人のカルタゴ司教カエリキアヌスとマヨリヌスのうち、実際に公会議が始まる前にマヨリヌスが死亡したため、その支持者たちは[[ドナトゥス]]を新たな司教に選出した<ref name="ジョーンズ2008p112">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 112</ref>。彼の名にちなんで北アフリカの反主流派は'''[[ドナトゥス派]]'''(ドナティスト)と呼ばれる<ref name="ジョーンズ2008p112"/>。313年10月2日にローマで行われた会議ではカエリキアヌス派に有利な決定がなされ、ドナトゥス派の主張は退けられた<ref name="ジョーンズ2008p113">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 113</ref><ref name="尚樹2005p44"/>。しかしドナトゥス派はこの決定を受け入れず、その強硬な反対の前に翌314年8月1日に[[アレラーテー]]([[アルル]])でより大規模な公会議([[アルル公会議]])が開催された<ref name="ジョーンズ2008p113"/><ref name="尚樹2005p44"/>。当時、コンスタンティヌス1世がドナトゥス派の姿勢に不快感を持っていたことを示す書簡の文章が現存しており、またその中で彼はこの「兄弟同士」の争いが異教徒の間でキリスト教の評判を落とすかもしれないことを心配している<ref name="ジョーンズ2008p114">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 114</ref>。さらにこの会議の機会をとらえて、[[復活祭]](イースター)の日付の統一や司教の叙任、任地、信徒の破門に関する規定なども行われた<ref name="ジョーンズ2008p116">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 116</ref>。
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19世紀から20世紀にかけて、西洋の歴史家たちによって多数のコンスタンティヌス1世の伝記が作成された。当時の西洋社会においては聖俗関係が大きなテーマの1つであり、彼ら近代の歴史家たちは、古代の著述家たちの記録の影響を受けて、また当時のヨーロッパにおける政教関係に対するそれぞれの立場も反映してコンスタンティヌス1世を評価した<ref name="ランソン2012p15">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 15</ref>。特に世俗主義者、反教権主義者、[[自由主義]]者らは、教会批判的な論調を背景にコンスタンティヌス1世を激しく批判している<ref name="ランソン2012p15"/>。現代の歴史家たちが近代以前のように聖者として、あるいは暴君・暗君としての一面的なコンスタンティヌス1世像を描くことは基本的にない。ただし、コンスタンティヌス1世が重要な人物であること自体に異論はなく、彼についての評価は多岐にわたる。
 
軍人としての評価は一般に極めて高く、い。[[ベルトラン・ランソン]]はコンスタンティヌス1世の軍事的才幹を確かなものと評し324年にコンスタンティヌス1世使用した「勝利者(''Victor'')」という称号を「実態をみごとに反映したものだった」としている<ref name="ランソン2012p149">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 149</ref>。この評価については[[A.H.M.ジョーンズ]]も同様である<ref name="ジョーンズ2008p240">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 240</ref>。ランソンの評によれば政略、戦略においても概ね成功のうちに人生を終えており、ローマ帝国における行政・軍隊・社会の「偉大な改革者」であり、その姿を長期にわたり変化させ持続させたものとしてコンスタンティヌス1世の改革は「コンスタンティヌス革命」と呼びうるものだったとしている<ref name="ランソン2012p150">[[#ランソン 2012|ランソン 2012]], p. 150</ref>。
 
一方でその人格は後世のキリスト教徒たちが想像したような聖者・卓越した政治家としての姿とは遠く離れたものでもあったとも言われる。ジョーンズは人間としてのコンスタンティヌス1世の姿を「人物から見ても能力から見ても、コンスタンティヌスは、後世が彼に与えた『大帝』という称号には到底値しない」と言い放っている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。ジョーンズは、戦争におけるコンスタンティヌス1世の決断力や大胆さを高く評価する一方、その人格は非常に気性が荒く、行動は性急であり、おべっかに弱く、行政において公正さを真摯に追及してはいたが、それを実現する意思と行動は一貫性を欠き、周囲にいる臣下の影響を受けやすかったとしている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。また、その放漫財政とそれによる農民層の負担増大にも厳しい目を向けている<ref name="ジョーンズ2008p240"/>。一方で、同じくジョーンズによれば、コンスタンティヌス1世は彼なりに善良さを追求した人物ではあり、それはとりわけ権力者が陥りがちな性的放蕩を避けたことによって示されているという<ref name="ジョーンズ2008p241">[[#ジョーンズ 2008|ジョーンズ 2008]], p. 241</ref>。