「江戸時代」の版間の差分

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==== 大政奉還 、王政復古 ====
{{see also|王政復古 (日本)|戊辰戦争|明治維新}}
[[1867年]](慶応3年)1月9日、[[明治天皇]]が[[践祚]]した。親長州派[[中山忠能]]が外祖父である中山忠能は禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけでない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁(たるひと)親王と中山忠能が宥免された<ref>宮地正人著 『幕末維新変革史 下』 岩波書店 2012年 40ページ</ref>。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた<ref group="†">6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることをめて示した。</ref><ref>藤沢周平著 『藤沢周平全集 第7巻』 文藝春秋 1993年 77ページ</ref>。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、後に「船中八策」と言われるものである<ref group="†">一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷から出すべきこと。
一、上下議政局を設け、議院を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべきこと。
一、有材の公卿、諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜い、よろしく従来有名無実の官を除くべきこと。