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==概要==
; 歴史
[[ファイル:Fuji pilgrim hokusai.jpg|thumb|250px|江戸時代の富士登山。浮世絵「冨嶽三十六景 諸人登山」。北斎画。]]
: 富士山は[[神体山]](霊山、霊峰)として古来崇められ、登山は[[山岳信仰]]の一環としての歴史が長い。[[伝説]]では[[飛鳥時代]]、[[聖徳太子]]が乗[[馬]]して山頂に至り<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170812/ddl/k19/040/062000c 聖徳太子騎馬像、8合目山小屋に 富士山/山梨]『毎日新聞』朝刊2017年8月12日(山梨県版)</ref>、[[役小角]]が[[流刑]]先の[[伊豆大島]]から海上を歩いて富士山頂に通ったとされる。[[平安時代]]の貴族で学者の[[都良香]]が記した『[[富士山記]]』には[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である。[[鎌倉時代]]には[[村山修験]]による修行のための登山が確立し、既に現在につながる4つの登山口があった[[明応]]9年([[1500年]])の妙法寺『勝山記』によれば、[[室町時代]]にはすでに修行ではなく参拝のための登山が確立しており、[[江戸時代]]中期以降には関東地方を中心に新宗教である[[富士講]]が流行し、一般人による信仰目的の登山が増加した。観光目的の登山は特に西洋の登山文化が導入された[[明治]]期以降、特に[[中央線]]の開通以降に盛んになった<ref>[http://www.fujiyama-navi.jp/fujitozan/appeal/page/tozan/ 毎夏約30万人を魅了する富士登山|富士山に登ろう]</ref>。
: 富士山はかつて[[女人禁制]]とされていた<ref>[http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-690-1.htm 竹谷靱負『富士山と女人禁制』(岩田書院)]</ref>が、[[江戸時代]]に登山客が増えると二合目、三合目、期間限定で五合目などと徐々に解禁されてゆき、江戸時代後期になると[[天保]]3年([[1832年]])に女性では初めて[[小谷三志|高山たつ]]が登頂<ref>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1041.html 富士山に初めて登った日本人女性は変装していた|富士山NET]</ref>。外国人初の登頂者は英国公使[[ラザフォード・オールコック]](([[万延]]元年([[1860年7]])7)、初の外国人女性登頂者は英国公使[[ハリー・パークス]]夫人(([[慶応]]3年([[1867年10]])10)である<ref>[http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jimusyo/fujiazami/fujiazami_64/fa64-2.html ふじあざみ64号(2)|富士砂防事務所]</ref>。
 
; 登山期間
: 富士登山の期間は、山開きの7月1日〜9月14日(山梨県側)もしくは7月10日〜9月10日(静岡県側)である<ref name=official/>。残雪の多い年は7月中旬まで登山道に雪が残り、ルートの開通が山開きに間に合わないことがしばしばある。日本最高峰である富士山の地形や気候は後述するように非常に厳しく、'''この期間外は、万全な準備をしない者の登山が原則禁止されている<ref name=guideline>[http://www.fujisan-climb.jp/risk/guidelines.html 富士登山における安全確保のためのガイドライン|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。'''特に'''積雪期・残雪期の無謀ともいえる登山は自殺に近い行為である<ref name=guideline/>。'''
 
== 気候 ==
; 気温
: 富士山頂は[[ケッペンの気候区分]]で[[ツンドラ気候]]に分類されるほど寒冷である。最暖月の8月の平均気温は6℃で、最寒月の1月の平均気温はマイナス18℃である<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=50&prec_ch=%90%C3%89%AA%8C%A7&block_no=47639&block_ch=%95x%8Em%8ER&year=&month=&day=&elm=normal&view= 富士山年・月ごとの値(気象庁)]</ref>。1981年2月27日には最低気温マイナス38.0℃を記録した<ref name=net>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1074.html 富士山頂の風や気温で、最もすごかった記録|富士山NET]</ref>。
 
;
: 富士山頂の平均[[風速]]は夏期で8m/s、冬期で20m/sである<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=49&block_no=47639&year=&month=&day=&view=a4 富士山  平均風速の月平均値(m/s)|気象庁]</ref>。1966年9月25日には最大瞬間風速91m/sを、1942年4月5日には最大風速(10分間の平均風速)72.5m/sを記録した<ref name=net/>。いずれも国内一位の記録である<ref name=net/>。
 
; 気圧
: 富士山頂の平均[[気圧]]は638[[ヘクトパスカル]]、0.63気圧である。そのため山頂付近では水が約88℃で沸騰し<ref>[https://www.fujisan-net.jp/data/article/1280.html 富士山頂の測候所|富士山NET]</ref>、人間は高山病を発症する危険性が高まる。
 
== 登山ルート ==
[[ファイル:HujiΣ.JPG|thumb|250px|五合目以上の富士山(北西斜面、標高約2300m2,300mから)]]
[[ファイル:Hasshinpo of Mt.Fuji 18.jpg|thumb|250px|富士山最高峰[[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]]]]
現在、一般観光用として使用されている[[登山道]]には[[静岡県]]側の「富士宮ルート」「須走ルート」「御殿場ルート」、[[山梨県]]側の「吉田ルート」の4ルートと、バリエーションの「プリンスルート」がある。登山者の約六割は吉田ルートを使用する<ref>[http://kanto.env.go.jp/to_2016/post_67.html 平成28年夏期の富士山登山者数の中間発表(第1回)について(お知らせ)|関東地方環境事務所]</ref> 。いずれのルートも'''登山の知識と経験、装備が欠かせない<ref name=official>[http://www.fujisan-climb.jp/basic/index.html 登山の前に必ず知っておくこと|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。'''
 
各ルートの登山口(自動車道の終点)は「五合目」又は「新五合目」と呼ばれているが、その標高はルートによって大きく異なる。例えば富士宮ルートの五合目は標高2380m2,380mだが、御殿場ルートの新五合目は標高1440m1,440mである。各登山口や主要駐車場では、環境・安全対策の財源となる原則1,000円の「富士山保全協力金」を支払う<ref>[http://www.fujisan-climb.jp/manner/kyoryokukin.html 富士山保全協力金]富士登山オフィシャルサイト(2018年4月1日閲覧)</ref>。
 
山頂を一周する「[[お鉢巡り]]」もよく周られているが、外周の一部は昭和後期以降通行不可能となっている。また、五合目付近を周る「[[御中道]]」は、半分が廃道となっており一周することはできなくなっている。[[宝永山]]付近を散策する「宝永山遊歩道」も一般的によく登られている。
 
麓からの徒歩でのルートとしては、吉田ルートに繋がる「吉田口登山道」と「精進口登山道」、御殿場ルートに繋がる「御殿場口登山道」と「須山口登山歩道・下山歩道」がよく整備されているほか、下記一覧以外に富士宮ルートに繋がる「[[富士山村山口登山道|村山口登山道]]」、須走ルートに繋がる「須走口登山道」(「富士箱根トレイル」の一部)も再整備されている。
 
登山上級者が使用するバリエーションルートは、主杖流し」「長田尾根」「屏風尾根」「七太郎尾根」「[[大沢崩れ]]左岸・右岸」「仏石流し」「小御岳流し」「吉田大沢など複数存在するが、落石や滑落などもあり大変危険である。また、麓からの徒歩でのルートも、昭和の半ばごろまであった人穴口登山道」「上井手口登山道」「新大宮口登山道・懸巣畑(カケスバタ)口登山道」「山中口登山道(山中湖口登山道)、」「船津口登山道(河口口登山道・河口湖口登山道)などは五合目まで自動車道が開通したことによりいずれも未整備の廃道となっており、一部は林道や自衛隊基地内となっているので、上級者であっても登山は困難である。
 
富士登山の歴史としては、[[村山修験]]の村山口登山道(現在の富士宮ルート)が最も古いとされ、[[富士山村山口登山道|大宮口登山道]](現在の富士宮ルート)、須走口登山道(現在の須走ルート)の3つの修験道が古くから整備され、[[江戸時代]]まで利権を争っていた。また修験道としては他に須山口登山道(現在の御殿場ルート)もあったが、[[宝永大噴火]]の影響で一時期は廃れていたため利権争いにはあまり加わっていない。江戸時代中期より[[富士講]]の隆盛で吉田口登山道と船津口登山道(現在の吉田ルート)が発展して利権争いに加わり、この4つのルートが現代に続いている。
 
; 歴史
歴史的なルートとしては前述以外に、江戸時代の『駿河国新風土記』に記載のある[[1570年代]]までは[[御師]]がいた本栖口登山道(本栖湖口登山道)などが存在したとされる。
: 富士登山ルートの歴史として、[[富士山本宮浅間大社]]に伝わる鎌倉時代の文書には、東口「須山口登山道(現在の御殿場ルート)」、南口「[[富士山村山口登山道|大宮口登山道]](現在の富士宮ルート)」、北口「吉田口登山道(現在の吉田ルート)」、さらに北口下山道と位置付けられた「須走口登山道(現在の須走ルート)」が書かれている。考古学的資料から見ても、現在につながる4つのルートが遅くとも鎌倉時代にはすでに存在していたのは間違いない。古くは[[駿河国]](静岡県)側の3ルートが表口、[[甲斐国]](山梨県)側が裏口と呼ばれた。大宮口は[[大宮町 (静岡県)|大宮]]・[[富士根村|村山]]の2つの村落に管理される「[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]](現在の富士宮ルート)」であり、また北口には[[富士上吉田町|吉田]]以外に[[河口湖町|河口]]が管理する「船津口登山道(現在の吉田ルート)」があったため、[[戦国時代]]以降に富士登山が盛んになると、主に6つの村落が登山客を巡って争うようになった。なお船津口は六合目で吉田口に合流し、吉田口は八合目(現在の本八合目)で須走口に合流するため、頂上の[[富士山#山役銭と内院散銭|内院散銭]]などの利権は[[須山村|須山]]、大宮・村山、[[須走村|須走]]が管理していた。[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永大噴火]]で須山口は70年以上、大宮・村山口と須走口は30年以上不通になったことから河口が隆盛するが、さらに富士講が流行ると河口は当初これを避けたのに対し吉田が早いうちから受け入れたため、河口を押しのけ頂上の利権争いに加わるまで隆盛し、現代につながる吉田口優勢の状態になった。明治以降になると「精進口登山道」など新しいルートが次々と開削されたが主流になることはなく、昭和半ばにバスで各ルートの五合目まで行けるようになると、古来からの4ルート以外は衰退していった。
 
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===吉田ルート===
[[ファイル:Mt.Fuji Horse.jpg|thumb|250px|right|富士スバルライン五合目ではレジャー化が進み、馬を使った観光業も見られる]]
[[山梨県]][[鳴沢村]]・[[富士吉田市]]の富士スバルライン五合目(船津口旧五合五勺・小御岳頂上、[[1964年]]([[昭和]]39年)開通)を出発し、吉田口六合目(天地の境)を経由して、富士山北側から山頂を目指すルート<ref name=yoshida>[http://www.fujisan-climb.jp/trails/yoshida/index.html 吉田ルート|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。全登山者の六割以上がこのルートを利用する。登山口の標高は2305m2,305m。本八合目で須走ルートと合流する。し、頂上には[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]]がある。全登山者の六割以上がこのルートを利用する。
 
登山道と下山道が大きく分かれている。下山道も本八合目で須走口下山道と分岐し、獅子岩付近より御中道を経由して吉田口六合目で登山道に合流する。富士スバルライン五合目から吉田口六合目へ至る道は登山道と下山道の兼用であるが、もともとは後述する「[[船津口登山道]]」に該当(もっと厳密に言えばこの区間も御中道であり、吉田口五合目までは泉ヶ滝で分岐する)し、現在でも富士スバルライン五合目と吉田口五合目とは位置が異なる。そのような理由もあり、以前は吉田口登山道と区別するため「河口湖ルート」とも呼ばれていた。
麓からの徒歩道として吉田ルートに合流する登山道は、富士スバルライン五合目で合流する赤池からの[[精進口登山道]](精進湖口登山道・鳴沢口登山道、[[1923年]](大正12年)開通)と、六合目で合流する[[吉田口登山道]]の2つがある。
 
麓からの徒歩道として吉田ルートに合流する登山道は、富士スバルライン五合目で合流する赤池からの[[精進口登山道]](精進湖口登山道・鳴沢口登山道、[[1923年]](大正12年)開通)と、六合目で合流する[[吉田口登山道]]の2つがある。
北口とも呼ばれ、[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]には開かれており[[江戸時代]]に[[富士講]]で繁栄した古来の吉田口登山道と、遅くとも[[室町時代]]には開かれており江戸時代に吉田口へ押されるまでは主流であった[[河口浅間神社]]付近からの[[船津口登山道]](河口口登山道・河口湖口登山道)を踏襲するルートである。特に吉田口は江戸時代中期には大宮・村山口と須走口が独占していた山頂の利権争いに加わるほど隆盛し、現在もメインのルートとなっている。吉田口登山道は[[北口本宮冨士浅間神社]]から頂上までの全域が[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の一部に登録されているが、このうち吉田ルートに該当するのは吉田口六合目から頂上までで、富士スバルライン五合目から吉田口六合目は含まれない。
 
富士スバルライン五合目から吉田口六合目はもともと船津口登山道に該当し、現在でも富士スバルライン五合目と吉田口五合目とは位置が異なることから、以前は区別するため「河口湖ルート」とも呼ばれていた。
 
なお、精進口の四合目から五合目は、本来は合流した船津口のものである。船津口登山道は精進口四合目に合流する旧登山道と、精進口三合目に合流する旧バスルートがあるが、2018年現在はいずれも整備されておらず廃道扱いである。他にも江戸時代から昭和初期まで登られていた、[[人穴富士講遺跡#人穴浅間神社|人穴浅間神社]]から村山口あるいは精進口に繋がる人穴口登山道も存在したとされるが、当時から一般的ではなかった。
 
; 利点
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:: [[桜木町駅]]・[[横浜駅]]から3時間1分([[相鉄バス]]・[[フジエクスプレス]])
:: [[センター北駅]]から3時間25分([[東急トランセ]]・[[富士急湘南バス]])
 
; 歴史
: 古来から北口や裏口とも呼ばれ、前述する「吉田口登山道」と「船津口登山道」との大きく2つのルートに由来する。
: 「吉田口登山道」は、[[富士上吉田町|吉田]](上吉田、標高850m)によって管理されていたルートであり、現在の吉田口六合目から頂上までの由来である。二合目には[[文武天皇]]3年([[699年]])に富士山最古の神社として小室浅間神社(現在の[[冨士御室浅間神社]])が鎮座しており、[[大同]]2年([[807年]])には里宮として[[下吉田町|下吉田]]に下宮浅間神社(下浅間、現在の[[小室浅間神社 (下浅間)|小室浅間神社]])が鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたと考えられている。[[元亀]]元年([[1570年]])には上吉田に[[御師]]が計画的に住み登山客を呼び込むようになったといい、[[文禄]]元年([[1592年]])にはすでに御師が江戸まで出向き「檀廻り」を行っていた。[[延宝]]8年([[1680年]])の『八葉九尊図』では小室浅間神社の里宮の一つである下吉田の下浅間から登るように描かれているが、宝永4年(1707年)の宝永大噴火を経て、江戸時代中期の富士講の流行を上吉田が早くから受け入れて発展すると、富士講の支持を得た上吉田の諏訪神社(現在の[[北口本宮冨士浅間神社]])が登山口として信仰の中心となった。富士講による発展で頂上の内院散銭などの利権争いにも加わるようになり、明治時代以降も吉田ルート優位の状態が続いている。富士スバルライン五合目までのバスルートの開通後も麓から徒歩で登山する人は一定数いたため、吉田口六合目までの徒歩道については山小屋などは閉鎖されたが廃道となることはなかった。そのため、北口本宮冨士浅間神社から吉田口六合目を経て頂上までの全域が「吉田口登山道」として[[世界遺産|世界文化遺産]]「[[富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の一部に登録されている。現在でも[[富士山駅]]前の上吉田町内には御師の[[宿坊]]が2件残っており、登山道入口の金鳥居も残っている。
: 「船津口登山道」(河口口登山道・河口湖口登山道)は、[[河口湖町|河口]](標高850m)によって管理されていたルートであり、現在の富士スバルライン五合目から吉田口六合目までの由来である。河口には噴火を鎮めるため[[貞観 (日本)|貞観]]7年([[865年]])に[[河口浅間神社]]が鎮座しており、また[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])には対岸の[[勝山村 (山梨県)|勝山]]に前述する小室浅間神社(現在の冨士御室浅間神社)の里宮が創建されている。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、鎌倉時代から遅くとも室町時代には開かれていたと考えられている。元は[[八神峰|白山岳]]頂上への直登ルートも持っていたが、[[元弘]]元年([[1331年]])の[[正平地震#元弘元年の地震|駿河地震]]で崩壊したとされ、小御岳・泉ヶ滝を経由し五合目(中宮)で吉田口に合流するルートが主となった。他に、小室浅間神社の里宮(勝山)から本宮(吉田口二合目)へのルートを利用し船津・吉田胎内を参拝して吉田口馬返しへ合流する登山客がいたり、また後には小御岳から御中道を経由して吉田口六合目(現在の富士スバルライン五合目から吉田ルート六合目)へ合流することもできた。このように、複数の個所で合流するようになってしまったことから、山役銭(登山料)の取り合いで吉田とは論争になった。しかしながら、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])の宿坊の記録では中宮を河口御師が管理しており、また吉田口二合目も小室浅間神社を中心とする勝山の土地であり(2019年現在も[[富士河口湖町]]の飛び地である)、さらに頂上の薬師堂(現在の久須志神社)の管理も河口御師である[[大石村 (山梨県)|大石]]の者が大宮(浅間大社)より任されていたため、当時は吉田よりも優勢であった。宝永4年(1707年)の宝永大噴火で他の登山口が30年以上不通となったため、河口はさらに発展するが、町民の間に富士講が流行すると、武士を主な支持層としていた河口は当初これを避けたため、吉田のほうが優勢となり、さらに[[文化 (元号)|文化]]7年(1810年)の山役銭論争で吉田に敗れ衰退した。その後も完全に寂れたわけではなく、後述する「精進口登山道」が開通すると四合目で合流したり、さらに船津から精進口三合目までバスが通るようになると、船津口三合目から精進口三合目までつながるバスルートと船津口四合目へつながる徒歩道の2つの道ができるが、富士スバルラインが開通すると船津からのバスも廃止され、徒歩で登山する人もいなくなり、実質的に廃道となった。
: 「本栖口登山道」(本栖湖口登山道)は本栖が管理していた登山道であり、江戸時代に書かれた『駿河国新風土記』によると[[1570年代]]までは御師がいたとされるが、河口御師に合流して消滅した。そのため、どのようなルートであったかは不明である。
: 「人穴口登山道」は、[[人穴富士講遺跡#人穴浅間神社|人穴浅間神社]]から大宮・村山口あるいは精進口に繋がるルートであり、江戸時代から昭和初期まで登られていたが、当時から一般的ではなかった。現在は一部が林道となっているが、完全に忘れ去られている。
: 「精進口登山道」(精進湖口登山道・鳴沢口登山道)は、[[1923年]](大正12年)に山梨県が開削した新しい登山道である。[[赤池 (山梨県)|赤池]]から登り船津口四合目に合流する。現在も遊歩道として整備されているが、船津口が廃道となっているため、四合目から五合目も船津口ではなく精進口として扱われている。
 
=== 富士宮ルート ===
[[ファイル:Fujisancho-postoffice.jpg|thumb|250px|[[富士山頂郵便局]]<br/>このポストに投函された郵便物には[[風景印]]が押される]]
[[ファイル:Fujitozan-bus.jpg|thumb|250px|登山バス(富士山本宮浅間大社横にて)]]
[[静岡県]][[富士宮市]]の富士宮口五合目(新大宮口旧三合五勺、[[表富士周遊道路|富士山スカイライン]]・[[1969年]](昭和44年)開通)を出発し、富士山南側から山頂を目指すルート<ref name=fujinomiya>[http://www.fujisan-climb.jp/trails/fujinomiya/index.html 富士宮ルート|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。登山口の標高は2380m2,380m。頂上には[[富士山本宮浅間大社#奥宮|富士山本宮浅間大社奥宮]]がある。静岡県側では最も利用者が多い。
 
麓からの徒歩道としての登山道は長らく未整備であったが、古来の[[富士山村山口登山道|村山口登山道]]が一部の崩落個所を除きかつてとほぼ同じルートで[[2005年]](平成17年)に復旧した。富士宮ルートとは六合目で合流する
 
富士登山道としては最も古いルートとされる。表口や三島口([[三嶋大社]]・[[浅間神社 (三島市)|浅間神社]]から見た呼称)とも呼ばれ、[[平安時代]]には開かれていた古来の[[富士山本宮浅間大社]]から[[村山浅間神社|富士根本宮村山浅間神社]]を経由する[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]に由来する[[村山修験]]のルートであるが、直接的には[[1906年]](明治39年)開通の新大宮口登山道を踏襲する。村山口は新大宮口開通により衰退していたため、大宮・村山口登山道として世界文化遺産に登録されているのは六合目から頂上までである。富士宮口五合目から六合目は新大宮口のものであるため含まれない。
 
麓からの徒歩道としての登山道は富士山スカイラインの開通後、長らく未整備であったが、古来の[[富士山村山口登山道|村山口登山道]]が一部の崩落個所を除きかつてとほぼ同じルートで[[2005年]](平成17年)に復旧した。富士宮ルートとは六合目で合流する
富士宮口五合目へ合流する登山道としては、富士山本宮浅間大社から[[山宮浅間神社]]を経由する新大宮口登山道および、山宮浅間神社を経由しない旧バスルートの懸巣畑(カケスバタ)口登山道([[1913年]](大正2年)開通)、それより西側には[[曽我八幡宮 (富士宮市上井出)|曽我八幡宮]]・[[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]]付近から新大宮口あるいは大沢崩れ右岸ルートに接続する上井手口登山道(昭和初期開通)や、人穴浅間神社から村山口あるいは精進口に繋がる人穴口登山道(江戸時代開通)が存在したが、2018年現在はいずれも整備されておらず廃道扱いである。
 
; 利点
263行目:
:: [[三島駅]]下車、登山バス(2時間5分, [[富士急静岡バス]])
:: [[静岡駅]]下車、高速バス(2時間10分, [[富士急行]])
 
; 歴史
: 「[[富士山村山口登山道|大宮・村山口登山道]]」は[[畿内]]に近いため、富士登山道としては最も古いルートといわれるが、中世の記録は北口のほうが多い。表口や南口、三島口(頂上の[[八神峰|三島岳]]に由来、あるいは[[三嶋大社]]・[[浅間神社 (三島市)|浅間神社]]から見た呼称)とも呼ばれ、[[大宮町 (静岡県)|大宮]](標高150m)と[[富士根村|村山]](標高500m)の2つの集落により管理されていた。
: 大宮では、噴火を鎮めるため[[大同]]元年([[806年]])年に浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)が[[山宮浅間神社]]から遷座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、[[久安]]5年([[1149年]])には[[末代]]により頂上に大日寺(現在の浅間大社奥宮)が建てられた記録がある。村山では[[12世紀]]後半の遺構が複数、頂上では[[承久]]2年([[1220年]])ごろの経巻が見つかっており、考古学的にも裏付けられていることから、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたのは確実である。[[文保]]元年([[1317年]])ごろには末代の流れをくむ[[頼尊]]によって村山に[[富士山興法寺]](現在の[[村山浅間神社|富士根本宮村山浅間神社]])が建てられたともいわれ、[[村山修験]]の中心地として発展した。登山道は[[村山三坊]]によって管理され、大宮側は基本的に関わらなかった。御師はおらず、大宮では浅間大社の[[神人|社人]]が、村山では修験者が宿坊を管理していた。
: 宝永4年(1707年)の宝永大噴火の被害で30年以上不通になると、村山修験者が京都まで行って富士垢離をするようになり、それで富士登山と同じ御利益があるとしたことや、もともと御師がおらず西国各地への「檀廻り」が行われなかったことから、登山客は減少した。それでも浅間大社を信仰する[[徳川幕府|幕府]]の裁定で、頂上の利権争いにおいて大宮が内院散銭の一番拾いの六割を取得し、八合目より上を浅間大社の支配地と明確にされるなど、影響は強かった。ただし、大宮が直接管理できていたのは薬師堂(現在の久須志神社)のみで、村山口から大日堂(現在の浅間大社奥宮)は村山の管理下であったことから、大宮関係者ですら村山に山役銭(登山料)を払わねばならないため、須走口を使っていた。また、大宮から村山を経て登山しなければならないことから、江戸時代には何度か村山から直接の登山に誘導するよう試みられており、大宮が抗議して幕府に仲裁されるなど、大宮と村山の連携はとれておらず、関係は悪かった。
: 明治時代になると幕府からの縛りがなくなったことから、大宮は[[身延線]]の開通を見越して[[1906年]](明治39年)に「新大宮口登山道」を開削し、村山ではなく山宮浅間神社を経由するようになる。[[1913年]](大正2年)にはバスが懸巣畑(カケスバタ)まで開通し、山宮浅間神社を経由することはなくなった。その後もバス路線は伸び、現在の富士宮ルートになると徒歩で登山する人はいなくなり、五合目までは実質的に廃道となった。一方、村山口は明治初期の[[神仏分離]]での興法寺・村山三坊の解体及び、この新大宮口開通により衰退していった。昭和になると登る人もほとんどいなくなり、富士山スカイラインの開通で実質的に廃道となり、近年再整備されるまでは放置されていた。そのため、「大宮・村山口登山道」として世界文化遺産に登録されているのは六合目(標高2,490m)から頂上までである。富士宮口五合目から六合目は新大宮口のものであるため含まれない。
: 富士宮口五合目へ合流する登山道としては、富士上記の「村山口登本宮浅間大社道」のほら[[山宮浅間神社]]を経由するに、上記の「新大宮口登山道および、山宮浅間神社を経由しない旧バスルートの懸巣畑(カケスバタ)口登山道([[1913年]](大正2年)開通)、それより西側には[[曽我八幡宮 (富士宮市上井出)|曽我八幡宮]]・[[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]]付近から新大宮口あるいは大沢崩れ右岸ルートに接続する上井手口登山道(昭和初期開通)や、人穴浅間神社から大宮・村山口あるいは精進口に繋が接続す人穴口登山道(江戸時代開通)が存在したが、2018年現在はいず再整備さた「村山口登山道」を除き整備されておらず廃道扱いである。
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268 ⟶ 275行目:
[[ファイル:Forest in Mt.Fuji 05.jpg|thumb|250px|樹林に覆われた5合目付近の登山道]]
[[ファイル:Mt.Fuji from Subashiri Trail 04.jpg|thumb|250px|6合目の手前より山頂を仰ぐ]]
[[静岡県]][[小山町]]の須走口五合目を出発し、富士山東側から山頂を目指すルート<ref name=subashiri>[http://www.fujisan-climb.jp/trails/subashiri/index.html 須走ルート|富士登山オフィシャルサイト]</ref>。登山口の標高は1970m1,970m。本八合目で吉田ルートと合流する。頂上には[[久須志神社 (富士山)|久須志神社]]がある。
 
麓からの徒歩としての登山道は長らく未整備であったが、[[2013年]](平成25年)に「富士箱根トレイル」というトレッキングコースの一部として、[[須走口登山道]]の馬返しから須走口五合目からまでが再整備された。
 
大宮・村山口と並んで古くから整備され利権を争ってきたルートで、東口とも呼ばれ、五合目から頂上までが須走口登山道として世界文化遺産に登録されている。[[東口本宮冨士浅間神社]]から頂上まで、遅くとも[[江戸時代]]には開かれていた古来の登山道の一つであり、[[宝永大噴火]]により被害を受けたものの短期間で復活したルートである。
 
かつては[[山中浅間神社]]付近から御中道を経由して五合目に合流する[[山中口登山道]](山中湖口登山道、昭和初期開通)も存在したが、ルートの大半が旧[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]](のちに在日[[アメリカ合衆国軍|米軍]]、[[陸上自衛隊]])の[[北富士演習場]]となったため廃道となっている。
 
; 利点
: 登山者が比較的少なく、本八合目まであまり混雑しない<ref name=subashiri/>。山小屋もそこそこある。景色に変化があり退屈しない。下山道に砂走りがある<ref name=subashiri/>。本六合目まで樹林帯で、陽射しが遮られる<ref name=subashiri/>。樹林帯を抜けると、朝は御来光を、夕方は影富士を見られる<ref name=subashiri/>。小富士(標高1979m)1,979m)に立ち寄れる。
 
; 難点
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:: 小田急[[新宿駅]]からJR[[御殿場駅]]までは、直通の特急[[ふじさん|あさぎり]]や、[[小田急箱根高速バス]]の御殿場行きを使うと便利。
:: 小田急[[新松田駅]]から徒歩3分のJR[[松田駅]]で[[御殿場線]]に乗り換える方法もある。
 
; 歴史
: 「須走口登山道」は、東口や表口とも呼ばれ、[[須走村|須走]](標高800m)が管理していた。須走には噴火を鎮めるため[[大同]]2年([[807年]])に冨士浅間神社([[東口本宮冨士浅間神社]])が鎮座している。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、平安時代から遅くとも鎌倉時代には開かれていたと考えられており、[[元中]]元年([[1384年]])の鏡が六合目で発見されていることから、室町時代には発展していたことがうかがえる。北口(吉田口・船津口)とは八合目(現在の本八合目)で合流し、利用客も北口のほうが多かったが、宝永5年([[1708年]])の記録では八合目から頂上までの茶屋は2軒を除き須走の管理下にあり、頂上の利権争いにも参加していたため、北口よりも歴史が古いと考えられている。また、現在まで大きな変更が最も少ないルートでもある。砂走りがあり下りやすいため、北口から登って須走口から下り、各地を観光して江戸に帰る客が多く、またその逆も好まれたことから、遭難者対応など他の登山口との連携も行われていた。江戸時代中期以降には富士講に属さない個人登山客も多かったことから、必ず案内人の御師をつけて遭難を防止することも行っていた。宝永大噴火での被害時も、幕府の支援を受けて30年ほどの短期間で復活している。昭和になると五合目までのバスの開通で徒歩での登山が廃れたため、五合目から頂上までが「須走口登山道」として世界文化遺産に登録されている。
かつて: 「[[山中口登山道]]」(山中湖口登山道、昭和初期開通)[[山中浅間神社]]付近から御中道を経由して五合目に合流するルートであり、[[山中口登湖村|]](山中湖口登山道、によって昭和初期開通)も存在したが、ルートの大半が旧[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]](のちに在日[[アメリカ合衆国軍|米軍]]、[[陸上自衛隊]])の[[北富士演習場]]となったため廃道となっている。
 
=== 御殿場ルート ===
静岡県[[御殿場市]]の御殿場口新五合目(旧二合目)を出発し、富士山南東側から山頂を目指すルート。登山口の標高は1440m1,440m。頂上には[[八神峰|銀明水]](湧き水)がある。標高差・距離・歩行時間の長いルートで、'''健脚向け'''とされる<ref name=gotenbaguchi>[http://www.fujisan-climb.jp/trails/gotenba/index.html 御殿場ルート|富士山オフィシャルサイト]</ref>。[[富士登山駅伝]]のコースである。
 
麓からの徒歩道としての登山道は長らく未整備であったが、[[1997年]](平成9年)に須山口登山歩道[[1999年]](平成11年)に須山口下山歩道が旧来とは別ルートで新たに整備された。須山御胎内からは少し離れてしまっているが、水ヶ塚や弁当場を通るため宝永大噴火前のルートには近いとされる。[[御殿場口登山道]]も徒歩で登山可能であるが、登山道として整備されているわけではない
 
; 利点
南口とも呼ばれる[[須山口登山道]]は、伝承では[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])に[[空海]]が開いたという[[平安時代]]には開かれていた古来の登山道の一つであるが、そこまで主流ではなく山頂の利権争いには参加していなかった。宝永4年(1707年)の宝永大噴火により一度廃れた後、[[安永]]9年([[1780年]])に別ルートで復活した。[[1883年]]([[明治]]16年)に[[八幡宮 (御殿場市)|西田中八幡宮]](東表口下宮浅間神社)からの御殿場口登山道(銚子口登山道、[[1889年]](明治22年)に[[御殿場駅]]・[[新橋浅間神社]]からとルート変更)が開通して旧二合八勺(標高2050m、六合目と五合五勺の間)で合流するようになると、[[須山浅間神社|南口下宮須山浅間神社]]から須山口旧二合八勺までの旧来ルートは衰退し、さらに一部が[[1912年]](明治45年)に旧日本陸軍(のちに在日米軍、陸上自衛隊)の[[東富士演習場]]となったため廃道となった。
: 登山者が非常に少なく、静かな登山を楽しめる<ref name=gotenbaguchi/>。駐車場も山小屋も空いている。駐車場が無料で、マイカー規制も行われない。人工物が少なく、自然を満喫できる。登山道の傾斜が比較的緩やかである<ref name=gotenbaguchi/>。登山道の上部からは、朝は御来光、夕方は影富士を見られる<ref name=gotenbaguchi/>。下山路に大砂走りがある<ref name=gotenbaguchi/>。[[宝永山]]や二子山に立ち寄れる。関東からのアクセスが良い。'''プリンスルート'''を使えば、富士宮ルートの標高の高さと、御殿場ルートの静けさを良いところどりできる。(詳しくは[[富士登山#皇太子の富士登山|皇太子の富士登山]]の項目を参照)
 
; 難点
そのため、須山口登山道として世界文化遺産に登録されているのは旧二合八勺から頂上の間および、須山御胎内周辺(標高1435〜1690m)だけである。新五合目(旧二合目)から旧二合八勺は御殿場口のものであるため含まれない。
: 登山者が非常に少なく、心細い。体力が不可欠。行動時間が長い。山小屋が少ない<ref name=gotenbaguchi/>。特に大石茶屋(標高1520m)1,520m)と7.4合目(標高3100m)3,100m)のわらじ館の間には山小屋やトイレ、救護所がない<ref name=gotenbaguchi/>。夜間や濃霧時に道に迷いやすい<ref name=gotenbaguchi/>。道迷いや疲労による遭難が多い<ref>[http://www.police.pref.shizuoka.jp/osirase/sangaku/fujisantoukei20-24.pdf 富士山における山岳遭難を防ぐために 平成25年3月 静岡県警察本部 地域部地域課]</ref>。樹林帯がなく陽射しが強い。景色の変化が乏しい。登山靴を消耗しやすい。バスの本数が少ない。
 
; 主なアクセス
;利点
: JR[[御殿場線]]
:登山者が非常に少なく、静かな登山を楽しめる<ref name=gotenbaguchi/>。駐車場も山小屋も空いている。駐車場が無料で、マイカー規制も行われない。人工物が少なく、自然を満喫できる。登山道の傾斜が比較的緩やかである<ref name=gotenbaguchi/>。登山道の上部からは、朝は御来光、夕方は影富士を見られる<ref name=gotenbaguchi/>。下山路に大砂走りがある<ref name=gotenbaguchi/>。[[宝永山]]や二子山に立ち寄れる。関東からのアクセスが良い。'''プリンスルート'''を使えば、富士宮ルートの標高の高さと、御殿場ルートの静けさを良いところどりできる。(詳しくは[[富士登山#皇太子の富士登山|皇太子の富士登山]]の項目を参照)
:: [[御殿場駅]]下車、登山バス(40分, [[富士急行|富士急行バス]])
 
: [[御殿場駅]]までのアクセス
;難点
:: 小田急[[新宿駅]]からJR[[御殿場駅]]までは、直通の特急[[ふじさん|あさぎり]]や、[[小田急箱根高速バス]]の御殿場行きを使うと便利。
:登山者が非常に少なく、心細い。体力が不可欠。行動時間が長い。山小屋が少ない<ref name=gotenbaguchi/>。特に大石茶屋(標高1520m)と7.4合目(標高3100m)のわらじ館の間には山小屋やトイレ、救護所がない<ref name=gotenbaguchi/>。夜間や濃霧時に道に迷いやすい<ref name=gotenbaguchi/>。道迷いや疲労による遭難が多い<ref>[http://www.police.pref.shizuoka.jp/osirase/sangaku/fujisantoukei20-24.pdf 富士山における山岳遭難を防ぐために 平成25年3月 静岡県警察本部 地域部地域課]</ref>。樹林帯がなく陽射しが強い。景色の変化が乏しい。登山靴を消耗しやすい。バスの本数が少ない。
:: 小田急[[新松田駅]]から徒歩3分のJR[[松田駅]]で[[御殿場線]]に乗り換える方法もある。
 
; 歴史
;主なアクセス
: 「[[須山口登山道]]」は、南口や東口、表口、銚子口(頂上の[[八神峰|銚子窪]]に由来)とも呼ばれ、[[須山村|須山]](標高600m)が管理していた。伝承では[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])に[[空海]]が開いたといわれ、また麓の浅間神社(現在の[[須山浅間神社|南口下宮須山浅間神社]])は神代([[景行天皇]]40年)鎮座といわれている。頂上までの登山がいつごろから行われるようになったかは不明だが、少なくとも[[文明 (日本)|文明]]18年([[1486年]])の[[道興]]の『廻国雑記』に「すはま口」の記載があり、[[大永]]4年([[1524年]])には須山浅間神社の存在が確認されていることから、平安時代から遅くとも室町時代までには開かれていたと考えられている。江戸時代初期には駿河側では最も利用者が多かったが、須山は林業や農業も盛んで、他の登山口とは異なり登山産業収入は年収の半分程度であり、依存度は低かった。宝永4年(1707年)の宝永大噴火にて壊滅的な打撃を受け一度廃れるも、御師の幕府への陳情により[[安永]]9年([[1780年]])に別ルートで復活した。[[天明]]2年([[1782年]])には大宮より頂上の銚子窪に鳥居を立てる許可を得て、[[天保]]7年([[1836年]])には銚子窪の銀明水を売る権利を得た。須走と近いため、登山客を巡る争いがたびたびあった。後述する御殿場口登山道ができると須山口旧二合八勺(標高2,050m、六合目と五合五勺の間)までの旧来ルートは衰退し、さらに一部が[[1912年]](明治45年)に旧日本陸軍(のちに在日米軍、陸上自衛隊)の[[東富士演習場]]となったため廃道となった。そのため、須山口登山道として世界文化遺産に登録されているのは旧二合八勺から頂上の間および、須山御胎内周辺(標高1,435〜1,690m)だけである。新五合目(旧二合目)から旧二合八勺は御殿場口のものであるため含まれない。
:JR[[御殿場線]]
: 「御殿場口登山道」は、[[東海道線]](現在の[[御殿場線]])の建設が決まったことから、登山客の利便を図るため[[1883年]]([[明治]]16年)に開通した。当初は[[八幡宮 (御殿場市)|西田中八幡宮]]を起点とし、末社として東表口下宮浅間神社が建てられたが、[[1889年]](明治22年)に[[御殿場駅]]が開業するとそちらに近い[[新橋浅間神社]]を起点と変更された。須山口には旧二合八勺で合流する。
::[[御殿場駅]]下車、登山バス(40分, [[富士急行|富士急行バス]])
:[[御殿場駅]]までのアクセス
::小田急[[新宿駅]]からJR[[御殿場駅]]までは、直通の特急[[ふじさん|あさぎり]]や、[[小田急箱根高速バス]]の御殿場行きを使うと便利。
::小田急[[新松田駅]]から徒歩3分のJR[[松田駅]]で[[御殿場線]]に乗り換える方法もある。
 
=== ルートごとの登山者数 ===
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: 山小屋は宿泊の[[予約]]を受け付けている。予約をしていないと定員を超えた時などに宿泊を断られることがある。ほとんどの山小屋は混雑しているが、(難度の高い)御殿場ルートの山小屋は比較的空いている。
; 宿泊料金
: 宿泊料金は素泊まりで一泊5,500円-6,500円、2食付で7,000円-8,000円程度である。なお、土日や休前日は1,000円程度料金が上乗せされることがある。ルートごとに宿泊料金がほぼ統一されている<ref>[http://www.fujisanpo.com/yamagoya/charges.html 富士山の山小屋宿泊料金一覧|富士さんぽ]</ref>。料金の支払いは現金が推奨され、クレジットカード、その他カードは使用できない<ref name=yamagoya/>。
; 寝室
: 基本的には男女相部屋の大部屋である。一人辺りのスペースは狭く、混雑時はさらに圧迫される<ref name=yamagoya/>。個室を備えた山小屋もわずかにある<ref>吉田ルートの鎌岩館</ref>。
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近年は軽量な金属製の[[杖#登山用の杖|ストック]]を使う登山者が増えているが、富士山では昔ながらの木製の金剛杖の使用も多い。この金剛杖には[[日本の国旗|日章旗]]や[[旭日旗]]などをつけて販売されることも多いほか、各山小屋では記念の焼印を有料で行っている。このため、すべての小屋の焼印を集め、杖を焼印でいっぱいにした登山者を多く見かける。金剛杖を購入した小屋や宿泊した小屋は焼印代を免除することが一般的である。雨天時は焼印を行わない所もある。
 
富士宮市の[[富士山本宮浅間大社]]の本宮や、山頂の富士山本宮浅間大社奥宮および久須志神社では、金剛杖への朱肉刻印を有料で行っている。
 
=== 携帯電話 ===