「醍醐の花見」の版間の差分

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[[豊臣秀頼]]・[[高台院|北政所]]・[[淀殿]]ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の[[女房|女房女中衆]]約1300人を召し従えた盛大な催しで、[[九州平定]]直後に催された[[北野大茶湯]]と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。
 
記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に[[京極竜子|松の丸殿]]、4番目に[[三の丸殿]]、5番目に[[摩阿姫|加賀殿]]、その後に側室ではない[[前田利家]]正室・[[芳春院|まつ]]が続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い(秀頼の生母として淀殿が優先権を主張したのに対し、松の丸殿は自身が淀殿の出身である[[浅井氏]]の旧主だった[[京極氏]]の出身である上、淀殿より早く秀吉の側室になっていた事を根拠に優先権を主張した)、北政所とは家族ぐるみの長い付き合いのまつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て(まつは家臣筋といえど、この席では客人。客人をほうっていて身内で順争いをするものではない為)その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
 
諸大名は[[伏見城]]から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八番の茶屋{{Sfn|桑田|1972|p=153}}<ref>一番は益田少将、山川みなぎりくだって、水がさかさまに流れるところに、反り橋をかけ、欄干を作っている。二番は新庄雑斎、松・杉・椎の木が三本並び、岩淵には清水をたたえ、鯉や鮒を放っている。三番は[[小川祐忠|小川土佐守]]、南破風口に、つなぎ馬の絵を描かせ、屋根は萱葺、垣は茅で囲い、あやつりの名人が芸をして見せた。四番は[[増田長盛|増田右衛門尉]]、三番から十五-六町も上にあった。岩窟の奥深いところにこしらえ、行水、午餐。設備に美をつくす。五番は[[前田玄以|前田徳善院]]、仮屋形風に作られる。六番は[[長束正家|長束大蔵大輔]]、夕食の御膳の支度あり:ここで装束をかえ和歌の会。七番は御牧勘兵衛(景則)。八番は[[新庄直忠|新庄東玉]]。</ref>の路地茶屋<ref>[[山田孝雄]] <small>[[山田忠雄]] 校訳</small> 『櫻史』 [[講談社学術文庫]] ISBN 4061589164、221頁。<br />
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