「近衛文麿」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Daimajinn5813 (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
13行目:
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1891|10|12|1945|12|16}}
|死没地 = {{JPN}} 東京都[[杉並区]]
|出身校 =
|所属政党 = [[研究会 (貴族院)|研究会]] → [[火曜会]]
|称号・勲章 = [[従二位]]<br />[[勲一等旭日大綬章]]<br />[[公爵]]<br />[[法学士]](京都帝国大学)
22行目:
|国旗 = JPN
|職名 = 第38-39代 [[内閣総理大臣]]
|内閣 = [[第2次近衛内閣]]<br />[[第3次近衛内閣]]
|就任日 = [[1940年]][[7月22日]]
|退任日 = [[1941年]][[10月18日]]
71行目:
== 概要 ==
[[摂家|五摂家]]の[[近衞家]]の第30代目当主。[[後陽成天皇]]の12世孫に
▲[[摂家|五摂家]]の[[近衞家]]の第30代目当主。[[後陽成天皇]]の12世孫にあたる。父である[[近衛篤麿|近衞篤麿]]は、第7代[[学習院]]院長や第3代貴族院議長など活躍していたが、文麿が成人する前に病没した。父の没後、近衞家を継承し公爵を襲爵、のちに貴族院議員となる。当初は[[研究会 (貴族院)|研究会]]に所属するが[[火曜会]]を結成し、貴族院副議長、貴族院議長などの要職を歴任した。
3度にわたり内閣総理大臣に任名され、[[第1次近衛内閣|第1次近衞内閣]]、[[第2次近衛内閣|第2次近衞内閣]]、[[第3次近衛内閣|第3次近衞内閣]]を組織した。その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。また、[[平沼内閣]]では、[[班列]]として入閣した。第1次近衞内閣では、[[盧溝橋事件]]に端を発した[[日中戦争]]が発生し、北支派兵声明、[[近衛声明]]や[[東亜新秩序]]などで対応、戦時体制に向けた[[国家総動員法]]の施行などを行った。また、[[新体制運動]]を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。その後も国内の[[全体主義]]化と[[独裁]]政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では[[八紘一宇]]と[[大東亜共栄圏]]建設を掲げて[[日独伊三国軍事同盟]]や[[日ソ中立条約]]を締結した。そのほかでは、[[枢密院議長 (日本)|枢密院議長]]や[[日本放送協会]]第2代総裁なども務めた。
78 ⟶ 77行目:
[[太平洋戦争]]中、[[吉田茂]]などと[[ヨハンセングループ]]として[[昭和天皇]]に対して「[[近衛上奏文]]」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、[[東久邇宮内閣]]にて[[国務大臣]]として入閣した。[[大日本帝国憲法]]改正に意欲を見せたものの、[[A級戦犯]]に指定され服毒自殺した。
[[指揮者]]・[[作曲家]]で貴族院議員を務めた[[近衞秀麿]]は異母弟、[[大山柏]]は妹婿、[[徳川家正]]は従弟にあたる。また、第45・46代[[熊本県知事一覧|熊本県知事]]や第79代内閣総理大臣を務めた[[細川護煕]]と、[[日本赤十字社]]社長や[[国際赤十字赤新月社連盟]]会長を務める[[近衛忠てる|近衞忠煇]]、[[島津氏|島津家]]第32代当主・[[島津修久]]は外孫に
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[
[[1891年]]([[明治]]24年)[[10月12日]]、[[公爵]]・[[近衛篤麿]]と旧[[加賀藩|加賀藩主]]で[[侯爵]]・[[前田慶寧]]の三女・衍子の間の長男として、[[東京市]][[麹町区]](現:[[千代田区]])で生まれた。その名は、長命であった曽祖父の[[近衛忠煕|忠煕]]による命名で、読みは「あやまろ」では語呂が悪いので「ふみまろ」とされた。文麿は[[皇別摂家]]の生まれであり、[[後陽成天皇]]の男系子孫にあたる。母の衍子は加賀前田家の出身であり、文麿が幼いときに病没、父の篤麿は衍子の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」<ref>『近衛文麿公清談録』</ref>。このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。
父の篤麿は[[アジア主義]]の盟主であり、[[東亜同文会]]を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、[[1904年]](明治37年)に、篤麿は41歳で死去した。文麿は12歳にして襲爵し[[近衛家]]の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。
[[中央区立泰明小学校|泰明尋常小学校]]を経て[[学習院]]中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる[[木戸幸一]]や[[原田熊雄]]などがいる。当時[[華族]]の子弟は[[学習院高等科 (旧制)|学習院高等科]]に進学するのが通例だったが、近衞は[[第一高等学校 (旧制) |
河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、[[社会主義|社会主義思想]]の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の[[配給制]]などに結びつく。{{仮リンク|ジョン・スパルゴー|en|John Spargo}}の『[[カール・マルクス]]の生涯』と[[トリノ大学]]教授ロリア ([[:en:Achille Loria|Achille Loria]]) の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』<ref group="注釈">[https://archive.org/details/contemporarysoci00lori "Contemporary Social Problems - A Course of Lectures delivered at the University of Padua"] by Loria, Achille,; Garner, John Leslie (1911)</ref>の2著をもらっている<ref>『清談録』千倉書房。</ref>。
京都では木戸幸一、原田熊雄、[[織田信恒]]、[[赤松小寅]]などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、[[毛利高範]]の娘・千代子と結婚し[[宗忠神社]]近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した[[西園寺公望]]が[[1913年]]([[大正]]2年)に京都に移ると、[[清風荘]]を訪問し西園寺に面会した。近衛家と[[西園寺家]]は共に[[堂上家]]であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている<ref name="jushiin">{{Cite book
在学中の[[1914年]](大正3年)には、[[オスカー・ワイルド]]の『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『[[新思潮]]』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は[[発禁処分]]となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する<ref>中西寛「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号)</ref>。
=== 政界へ ===
[[
[[1916年]]([[大正]]5年)10月11日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員になる<ref>『官報』第1261号、大正5年10月12日。</ref>。
116 ⟶ 115行目:
=== 第一次内閣 ===
[[
[[
[[
==== 1937年(昭和12年) ====
125 ⟶ 124行目:
元老・西園寺公望の推薦により近衞は再び大命降下を受け、[[6月4日]]に[[第1次近衛内閣]]を組織した。首相就任時の年齢は45歳7ヶ月で、初代首相・[[伊藤博文]]に次ぐ史上2番目の若さである。軍部大臣には[[杉山元]](陸軍)と[[米内光政]](海軍)が留任し、外務大臣は広田弘毅、さらに[[民政党]]と[[政友会]]からも大臣を迎えた。昭和研究会からは[[有馬頼寧]]が農林大臣に、[[風見章]]が[[内閣書記官長]]に加わった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。
就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、[[治安維持法]]違反の共産党員や[[二・二六事件]]の逮捕・服役者を[[大赦]]しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、[[荒木貞夫]]が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、[[真崎甚三郎]]の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え
[[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]をきっかけに[[日中戦争]](支那事変)が勃発した。[[7月9日]]に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・[[香月清司]]に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、[[今井武夫]]らの奔走により[[7月11日]]に現地の[[松井太久郎]]大佐(北平特務機関長)と[[秦徳純]](第二十九軍副軍長)との間で[[停戦協定]]が締結された。しかし近衞は[[蒋介石]]が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け<ref>実際には蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。</ref>、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、[[立憲民政党]]総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている<ref>秦郁彦『盧溝橋事件』</ref>。
142 ⟶ 141行目:
==== 1938年(昭和13年) ====
翌[[1938年]](昭和13年)[[1月11日]]には、[[御前会議]]で[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀本部]]の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。これは[[ドイツ]]の仲介による講和([[トラウトマン工作]])を求める方針だった。しかし、近衞は[[1月14日]]に和平交渉の打ち切りを閣議決定し、[[1月16日]]に「爾後國民政府ヲ對手トセズ<!--正字体で-->」の声明([[近衛声明#第一次近衛声明|第一次近衛声明]])を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。5月には現地日本軍が[[徐州市|徐州]]を占領しており、7月には尾崎秀実・[[松本重治]]・[[犬養健]]・[[西園寺公一]]・[[影佐禎昭]]らの工作により、[[中国国民党]]左派の有力者である[[汪兆銘]]に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。その後、日本軍は[[広東]]と武漢三鎮を占領している。
この間、国内では2月17日には防共護国団の約600名が立憲民政党と[[立憲政友会]]の本部を襲撃しているが([[政党本部推参事件]])、これに先立ち中溝多摩吉は政党本部襲撃計画案を近衞に見せ、近衞はこれに若干の修正を加えている{{Refnest|group="注釈"|事前に近衞に計画案を見せ、その一部について近衞が手を入れたという話は、中溝多摩吉配下の青木保三が書いた回想録
この頃に近衞は、陸軍参謀総長・[[閑院宮載仁親王]]らに根回しをすることで杉山元の更迭を成功させた。後任の陸相には[[小畑敏四郎]]を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった[[板垣征四郎]]を迎えることを決意し、山東省の最前線にいた板垣への使者として民間人の[[古野伊之助]]を派遣している。この時期の内閣改造で主に入閣したのは、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚への起用を考えていた人々であった。この人事により軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。近衞は広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が[[興亜院]]を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。
161 ⟶ 154行目:
=== 新体制の模索 ===
[[
[[
近衞の後を承けたのは前[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の[[平沼騏一郎]]だったが、平沼内閣には近衞内閣から司法兼逓・文部・内務・外務・商工兼拓務・海軍・陸軍の七大臣が留任した
しかし同時に、[[末次信正]]・有馬頼寧・風見章らのような近衛内閣の熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。8月23日に[[独ソ不可侵条約]]が締結されると、1937年に締結した[[日独伊防共協定]]をさらに進めた防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職した。その一週間後にはドイツが[[ポーランド]]に侵攻、これを受けて[[イギリス]]や[[フランス]]がドイツに[[宣戦布告]]したことで[[第二次世界大戦]]が始まる。平沼の後は陸軍出身の[[阿部信行]]と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当した。
170 ⟶ 163行目:
この間の近衞は新党構想の肉付けに専念した。[[1940年]](昭和15年)3月25日には[[聖戦貫徹議員連盟]]が結成され、[[5月26日]]には近衞が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]や[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]をモデルにした独裁政党の結成を目指した。[[6月24日]]に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。
欧州でドイツが破竹の進撃を続ける
新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に臨むことになった近衞は、閣僚名簿奉呈直前の[[7月19日]]、荻窪の私邸・[[#荻外荘|荻外荘]]でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた[[松岡洋右]](外相)、[[吉田善吾]](海相)、[[東條英機]](陸相)と「[[東亜新秩序]]」の建設邁進で合意している。{{clear}}
179 ⟶ 172行目:
しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「[[幕府]]批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、[[10月12日]]に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。
また、新体制運動の核の一つであった[[経済新体制確立要綱]]が財界から反発を受け、近衛が当初商工大臣に据えようとした[[革新官僚]]の商工次官・[[岸信介]]は辞退したために代わりに任じた[[小林一三]]は経済新体制要綱の推進者である岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。内務大臣となった平沼騏一郎は経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らは
[[9月23日]]に北部[[仏印進駐]]。[[9月27日]]に[[日独伊三国軍事同盟]]を締結。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。
[[1941年]](昭和16年)1月11日、任期満了に伴う4月の[[衆議院選挙]]を1年延期し、対米戦決意を明らかにし、[[国防国家]]建設に全力を挙げる態勢をとることで、近衛首相と[[風見章]]と[[有馬頼寧]]の意見が一致した。さらに近衛首相らは、1月20日、声明を発して対米戦気運を醸成するとともに[[大政翼賛会]]にて対米戦に備える国民運動を組織化することを決定したが、声明自体は取り
[[1941年]](昭和16年)[[4月13日]]に[[日ソ中立条約]]を締結。近衞らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に送られたが、アメリカは修正案を黙殺した。
191 ⟶ 184行目:
[[7月2日]]の御前会議で「[[情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱]]」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては[[7月7日]]いわゆる[[関東軍特種演習]]を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。
[[7月18日]]に内閣総辞職した。足枷でしかなかった松岡洋右を更迭するためであった([[大日本帝国憲法]]では内閣総理大臣が閣僚を罷免
=== 第三次内閣 ===
[[
1941年(昭和16年)7月18日に、[[第3次近衛内閣]]を組織。外相には、南進論者の海軍大将・[[豊田貞次郎]]を任命した。[[7月23日]]にすでにドイツに降伏していた[[フランス]]の[[ヴィシー政権]]から[[フランス領インドシナ|インドシナ]]の権益を移管され、それを受けて[[7月28日]]に南部[[仏印進駐]]を実行し、[[7月30日]]に[[サイゴン]]へ入城。しかしこれに対するアメリカの対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。
206 ⟶ 199行目:
1941年(昭和16年)[[12月8日]]の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。[[1942年]](昭和17年)の[[シンガポールの戦い|イギリス領シンガポール占領]]と[[ミッドウェー海戦]]の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国の[[スイス]]に派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
戦局が不利になり
[[1944年]](昭和19年)7月9日の[[サイパン島]]陥落に伴い、[[東條内閣]]に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した
[[1945年]](昭和20年)1月25日に京都の近衛家[[陽明文庫]]において岡田啓介、米内光政、[[仁和寺]]の[[門跡]]・[[岡本慈航]]と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた<ref name="koushitsu">{{Cite book
戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、[[若槻禮次郎]]、[[牧野伸顕]]、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衞は1945年(昭和20年)[[2月14日]]に、昭和天皇に対して「[[近衛上奏文]]」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、[[国体]]護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である[[統制派]]を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする[[反共主義]]に基づく[[陰謀論]]も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と[[殖田俊吉]]が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している<ref name="shusenshi" />。近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、[[山下奉文]]、小畑敏四郎ら皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。
6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・[[鈴木貫太郎]]に述べた。これを受けて、外相・[[東郷茂徳]]は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身は和平の仲介はイギリスが最適だと考えていたとされ、側近だった[[細川護貞]]は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている<ref>NHK取材班『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川書店《角川文庫》、1995年、p225(「[[ドキュメント太平洋戦争]]」の書籍化)</ref>。だが近衞の[[モスクワ]]派遣は、2月に行われた[[ヤルタ会談]]で対日参戦を決めていた[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・[[酒井鎬次]]の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と[[琉球諸島]]・[[小笠原諸島]]・[[千島列島|北千島]]を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた<ref name="nhkp226">『太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』pp.226 - 228</ref>。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった<ref name="nhkp226"/>。
=== 終戦後 ===
[[
[[
1945年(昭和20年)[[8月15日]]に[[日本軍]]は[[無条件降伏]]し([[日本の降伏]])、[[第二次世界大戦]]の停戦が発効し(終結は同年[[9月2日]])、[[鈴木貫太郎内閣]]は総辞職して[[東久邇宮稔彦王]]が後任の[[内閣総理大臣]](史上唯一の[[皇族]]首相)となった。近衞は[[東久邇宮内閣]]に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、[[緒方竹虎]]と
▲1945年(昭和20年)[[8月15日]]に[[日本軍]]は[[無条件降伏]]し([[日本の降伏]])、[[第二次世界大戦]]の停戦が発効し(終結は同年[[9月2日]])、[[鈴木貫太郎内閣]]は総辞職して[[東久邇宮稔彦王]]が後任の[[内閣総理大臣]](史上唯一の[[皇族]]首相)となった。近衞は[[東久邇宮内閣]]に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、[[緒方竹虎]]とともに組閣作業にあたった。[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心とした[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による日本占領が開始された後の[[10月4日]]、近衞は[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令官]][[ダグラス・マッカーサー]]を訪問し、持論の軍部[[右翼]]赤化論と共に開戦時において[[昭和天皇|天皇]]を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、[[ドイツ]]のような[[社会民主主義]]者や[[自由党]]が育たない間に、[[皇室]]と[[財閥]]を除けば日本はたちまち[[共産主義|共産化]]すると説いた。これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは[[自由主義]]的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁する[[コスモポリタン]]と称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。
その後[[治安維持法]]の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となった。
228 ⟶ 218行目:
近衞は10月8日に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]政治顧問[[ジョージ・アチソン]]を訪問し、マッカーサーから言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目にわたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じられ、東大の[[高木八尺]]と京大の[[佐々木惣一]]の助言を受けながら熱心に帝国憲法改正作業を進めた<ref group="注釈">この辺りの詳細については、矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)、児島襄『史録 日本国憲法』(文春文庫)等を参照。</ref>。
10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項を
近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていた。また[[池田成彬]]に対して「あなたは戦犯になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった<ref name="shusenshi" />。しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の『[[ニューヨーク・タイムズ]]』では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。
[[白洲次郎]]たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった<ref>矢部貞治『近衞文麿』(読売新聞社)738-739頁</ref>。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について[[米国戦略爆撃調査団]]による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長の[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]は、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したこと
ノーマンはこの覚書の中で、一度も会ったことのない近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた[[風見章]]と、[[ハーバード大学]]時代の[[共産主義]]同志で義理の伯父に[[木戸幸一]][[内大臣]]をもつ[[都留重人]]からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されてる<ref>林千勝「支那事変と敗戦で日本革命を目論んだ者たち」『正論』2016年5月号、pp.85</ref>。
238 ⟶ 228行目:
近衞は兼ねて[[1921年]](大正10年)の演説で、[[統帥権]]によって将来軍部と政府が二元化しかねない危険性を説き、後にそれが現実となった形だった。しかし当時連合国軍総司令部の中心となっていたアメリカ側にはこのような状況は理解し難い内容であった。
近衞は『世界文化』に、「手記~平和への努力」を発表し、「[[支那事変]]の泥沼化と[[大東亜戦争]]の開戦の責任はいずれも軍部にあり、天皇も内閣もお飾りに過ぎなかった」と主張した。
しかし近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして当時から今日に至るまで、厳しく批判されている。親交のあった[[重光葵]]からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。
248 ⟶ 238行目:
12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、[[A級戦犯]]として[[極東国際軍事裁判]]で裁かれることが最終的に決定した。近衞は[[巣鴨拘置所]]に出頭を命じられた最終期限日の[[12月16日]]未明に、荻外荘で[[シアン化カリウム|青酸カリ]]を服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一でもある<ref group="注釈">東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている</ref>。
最新の資料によると他殺の可能性も出てきている
自殺の前日に近衞は次男の[[近衛通隆]]に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。
葬儀は[[12月21日]]に行
朝日新聞において12月20日から『近衛公手記』が11回に渡り掲載された。開戦前の日米交渉に自身が果たした役割が語られている。これを読んだ昭和天皇は「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている<ref>{{Cite book
元陸軍少尉の[[山本七平]]は、「近衛の言い訳」を次のように完全否定した。
270 ⟶ 260行目:
== 人物 ==
[[
=== ゾルゲ事件との関わり ===
303 ⟶ 293行目:
== 家族・親族 ==
[[
妻の千代子とは、[[公爵]]という身分には珍しい恋愛結婚だった。しかし相手も[[華族]]で、釣り合いが取れないわけではなかった。華族女学校で一番の美女だったという千代子を[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の学生だった文麿が電車の中で見初めた一方的な一目惚れだったという。挙式は京都・[[宗忠神社]]。結婚当時は京都帝大在学中だったが、その生活は「学生結婚」という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだった<ref group="注釈">以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九[[毎日新聞社]]編。京都の新居には女中もいれば[[書生]]も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は[[宗忠神社]]の社務所として現存している。</ref>。
結婚生活は円満だったが、弟の秀麿と同様に当時の[[大身]]の例にもれず数人の[[妾]]を囲い、隠し子もいた<ref>『宰相近衛文麿の生涯』[[有馬頼義]] 著。</ref>。流行歌手だった[[市丸]]が近衞の愛人だったことは有名である。千代子は気丈な女性で、文麿の服毒自殺に際しても、決して取り乱すことはなかった。
次女の温子(よしこ)は[[1937年]](昭和12年) 4月、当時まだ京都帝大在学中だった[[細川護貞]]と結婚した。その直後に父は総理となり、夫は総理秘書官となる。3年後の1940年(昭和15年)8月、父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった。この温子と護貞の短い結婚生活の
不仲だった継母の貞は戦時中京都の別邸(現・[[陽明文庫]]所在地)に単独で疎開。1945年(昭和20年)8月15日に同地で死去した。
315 ⟶ 305行目:
* 母:衍子(旧[[加賀藩]]主 [[前田慶寧]]侯爵の五女)
** 嫡子:'''文麿'''
* 継母:貞子(前田慶寧の六女、実の叔母に
** 異母妹:武子([[大山巌]]公爵の次男 [[大山柏]]に嫁ぐ)
** 異母弟:[[近衛秀麿|秀麿]](指揮者 作曲家)
337 ⟶ 327行目:
=== 近衞家 ===
{{main|近衛家}}
[[藤原忠通]]の子[[近衛基実|基実]]を始祖とする[[五摂家]]の一つ。江戸時代初期に嗣子を欠いたため、[[後陽成天皇]]の第四皇子が母方の叔父・[[近衛信尹|信尹]]の養子となり[[近衛信尋|信尋]]として近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫に
=== 皇室との関係 ===
{{Familytree/start|style=font-size:70%}}
{{Familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree|Goyozei|v|Gomizunoo|v|Meisho| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |Goyozei=[[後陽成天皇]]|Gomizunoo=[[後水尾天皇]]|Meisho=[[明正天皇]]|boxstyle_Goyozei=background-color:#fc0
{{Familytree| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree| | | |!| | | |)|Gokomyo| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |Gokomyo=[[後光明天皇]]|boxstyle_Gokomyo=background-color:#fc0
{{Familytree| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree| | | |!| | | |)|Gosai| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |Gosai=[[後西天皇]]|boxstyle_Gosai=background-color:#fc0;}}
{{Familytree| | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree| | | |!| | | |`|Reigen|-|Higashiyama|v|Nakamikado|-|Sakuramachi|-|Momozono|-|Gomomozono| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |Reigen=[[霊元天皇]]|Higashiyama=[[東山天皇]]|Nakamikado=[[中御門天皇]]|Sakuramachi=[[桜町天皇]]|Momozono=[[桃園天皇]]|Gomomozono=[[後桃園天皇]]|boxstyle_Reigen=background-color:#fc0
{{Familytree| | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree| | | |!| | | | | | | | | | | |`|Naohito|-|Sukehito|-|Kokaku|-|Ninko|-|Komei|-|Meiji|-|Taisho|-|Showa|-|Kinjo|Naohito=[[閑院宮直仁親王|直仁親王]]|Sukehito=[[閑院宮典仁親王|典仁親王]]|Kokaku=[[光格天皇]]|Ninko=[[仁孝天皇]]|Komei=[[孝明天皇]]|Meiji=[[明治天皇]]|Taisho=[[大正天皇]]|Showa=[[昭和天皇]]|Kinjo=[[明仁天皇|今上天皇]]|boxstyle_Kokaku=background-color:#fc0
{{Familytree| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree| | | |`|Nobuhiro|-|Hisatsugu|-|Motohiro|-|Iehiro|-|Iehisa|-|Uchisaki|-|Tsunehiro|-|Motosaki|-|Tadahiro|-|Tadafusa|-|Atsumaro|-|Fumimaro|Nobuhiro=[[近衞信尋]]|Hisatsugu=[[近衞尚嗣]]|Motohiro=[[近衞基熈]]|Iehiro=[[近衞家熈]]|Iehisa=[[近衞家久]]|Uchisaki=[[近衞内前]]|Tsunehiro=[[近衞経熈]]|Motosaki=[[近衞基前]]|Tadahiro=[[近衞忠煕]]|Tadafusa=[[近衞忠房]]|Atsumaro=[[近衞篤麿]]|Fumimaro='''近衞文麿'''|boxstyle_Fumimaro=background-color:#faa
{{Familytree| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |}}
{{Familytree/end}}
* 係累縁者が多数に上るため、[[後陽成天皇]]以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
* 遠祖の[[近衞信尋]]は、後陽成天皇の第四皇子として生まれ、[[近衞信尹]]の養子となり、[[近衞家]]を継承した。
364 ⟶ 353行目:
;勲章等
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[
* [[1931年]](昭和6年)[[5月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref>
* [[1934年]](昭和9年) - [[
* [[1939年]](昭和14年)[[5月19日]] - [[
;外国勲章佩用允許
* [[1927年]](昭和2年)[[4月19日]] - 千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章([[ローマ法王]]庁)<ref>『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。</ref>
* [[1929年]](昭和4年)[[9月28日]] - [[
* [[1939年]](昭和14年)[[12月27日]] - [[タイ王国]]レレファンブラン勲章グランクロア<ref>『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。</ref>
== 文献 ==
近衛が開設した[[陽明文庫]]には近衛の関連資料が所蔵されている。
=== 自著 ===
[[
* {{
** {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
* {{
==== 手記・日記 ====
* {{
* {{
:* {{
* {{
* {{
* {{
* {{Cite book|和書 |author=松田道雄 |title=近衛上奏文 |series=近代日本思想大系 |year=1974 |publisher=筑摩書房 |ncid=BN01195374 |number=35-36 |author2=橋川文三}}
* {{Cite book/和書 |title=大統領への証言 手記「日米開戦の真実」|year=2008 |ncid=BA88657502 |publisher=毎日ワンズ |isbn=9784901622363}} ― 『近衛手記』『近衛日記』を底本とし、『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』を大幅に改訂、改題。 * {{
==== 翻訳 ====
*{{
=== 評伝 ===
*{{
:*復刻版 {{
*{{
:*新版1986年/光人社NF文庫
*{{
*{{
:*[[河出文庫]](上下), 1990年
*{{
*{{
**中央公論新社〈中公文庫〉[く16-4]、2009年。{{isbn|9784122051782}}
*{{
*{{
*{{
*{{
=== その他 ===
*{{
**{{
*{{Cite book|和書|author=平泉澄 |title=悲劇縦走 |publisher=[[皇學館大学]]出版部 |ncid= BN07587049 |date=1980-09}}
*{{
*{{
**PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、改版。{{NCID|BB00551628}}
*{{
*{{
*林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ!ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿そしてフーバーは』 WAC ISBN 978-4-89831-481-4 (2019/2/27)
455 ⟶ 445行目:
*『[[経世済民の男]] 第三部 鬼と呼ばれた男〜松永安左エ門』(2015年、NHK)- 演:[[利重剛]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
480 ⟶ 470行目:
* [http://www.wul.waseda.ac.jp/CLIB/MICRO/konoe.html 近衛文麿公関係文書]
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060040_00000 「時局に処する国民の覚悟」近衛文麿 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
{{-}}
{{start box}}
{{s-par}}
{{
|
|
|
|
}}
{{s-off}}
{{
|
|
|
|
}}
{{succession box
|
|
|
|
}}
{{
|
|
|
|
}}
{{
|
|
|
|
}}
{{
|
|
|
|
}}
{{S-reg|jp}}
{{Succession box
|
|
|
|
}}
{{end box}}
{{日本国歴代内閣総理大臣
|当代 = [[第1次近衛内閣|34]]
|在任期間 = 1937年6月4日 - 1939年1月5日
|前代 = [[林内閣|33]]
|前首相名 = 林銑十郎
|次代 = [[平沼内閣|35]]
|次首相名 = 平沼騏一郎
|2当代 = [[第2次近衛内閣|38]]・[[第3次近衛内閣|39]]
|2在任期間 = 1940年7月22日 - 1941年10月18日
|2前代 =
|2前首相名 = 米内光政
|2次代 = [[東條内閣|40]]
|2次首相名 = 東條英機}}
{{貴族院議長}}
{{貴族院副議長}}
554 ⟶ 542行目:
{{東亜同文会会長|第5代:1936年 - 1945年}}
{{A級戦犯}}
{{Normdaten}}
|