「日蘭関係」の版間の差分

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[[画像:Nagasaki-Dejima-1796.jpg|thumb|right|300px|復元された出島のオランダ商館内部]]
[[画像:Dutch personnel and Japanese women watching an incoming towed Dutch sailing ship at Dejima by Kawahara Keiga.jpg|thumb|right|300px|川原慶賀「唐蘭館図 蘭船入港図」]]
[[慶長]]5年3月16日([[グレゴリオ暦]][[1600年]]4月2919日)、オランダの商船'''[[リーフデ号|リーフデ号(デ・リーフデ号)]]'''<ref>リーフデ号ほか5隻の商船団は、[[1598年]]6月に西回りで[[アジア]]に向けてオランダを出発した。リーフデ号は、110名の乗組員のうち、生き残ったのは24名だった。</ref>が、[[豊後国]]臼杵([[大分県]][[臼杵市]])に漂着した。当時、新教国で新興貿易国家として勢力を伸張していたオランダに対し、敵愾心を抱いていたカトリック国[[スペイン]](イスパニア)の[[イエズス会]]士らは、「リーフデ号は[[海賊|海賊船]]である」と、[[五大老]]の一人であった[[徳川家康]]に進言した。この進言を受けて、乗組員のオランダ人'''[[ヤン・ヨーステン]]'''(ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン)や、イギリス人の[[ウィリアム・アダムス]]らは、船とともに[[大阪|大坂(大阪)]]へ護送され、取り調べを受けた。同月末(同年5月)、乗組員を引見した家康は、新教国とカトリック国の対立など欧州情勢を臆さずに説くヤン・ヨーステンらを気に入り、海賊船の嫌疑を晴らした。家康は、釈放されたヤン・ヨーステンらを城地の[[江戸]]に招き、外交政策の相談役とした<ref>なお、リーフデ号の船長カーケルナックは、家康から通商許可状を得て、[[1605年]]に[[タイ王国|タイ]]のパタニにあった[[オランダ東インド会社]]の貿易基地に無事到着し、[[1609年]]の[[平戸市|平戸]][[オランダ商館]]開設に努めた。</ref>。江戸に[[幕府]]を開いた後も、ヤン・ヨーステンは城下に屋敷を構えて外交交渉に当たり、ウィリアム・アダムスは後に[[旗本]]として[[相模国]][[三浦郡]]逸見(現・[[神奈川県]][[横須賀市]][[逸見 (横須賀市)|逸見]])に領地得て、三浦按針の名を与えられた。ヤン・ヨーステンの屋敷跡は[[八重洲]]([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]]八重洲)という地名に、アダムスが眠る旧領に造られた駅には[[安針塚駅]]([[京急本線]])と、その名を残している。
 
[[江戸幕府]]は、当初、[[安土桃山時代]]から続く[[南蛮貿易]]について、その独占と管理に重点を置き、開国を維持する政策を採った。[[1604年]](慶長9年)には、江戸幕府が初めて内外貿易船に[[朱印状]]を下付して[[朱印船貿易]]を始め、同年には[[糸割符]]制度も始めた。貿易関係は維持したものの、[[キリスト教]]に対する警戒は強まり、特に布教に力を入れるスペインなどのカトリック国を冷遇し、貿易に力を入れるオランダやイギリスなどの新教国を厚遇する措置をとった。[[1609年]](慶長14年)にオランダ、[[1613年]](慶長18年)にはイギリスが、[[肥前国]]平戸(長崎県[[平戸市]])に商館を置いて平戸貿易が始まると、その傾向は顕著になった。なお、スペイン人・ポルトガル人を[[南蛮人]]というのに対して、オランダ人は'''[[紅毛人]]'''と呼ばれ、後には広く西洋人一般を紅毛人と称した。