「南部信直」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
34行目:
 
=== 南部宗家家督相続 ===
南部氏第25代当主晴継が没したことにより、急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・[[九戸政実]]の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ[[九戸実親]]を推す意見もあったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった{{Sfn|阿部|西村|1990|p=590}}。このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。
天正9年([[1581年]])、信直が南部家の家督を継承し当主となる<ref>{{Citation|和書|author=熊谷隆次|chapter=豊臣政権の八戸|title=新編八戸市史 通史編 原始・古代・中世|year=2015}}</ref>。
 
なお、この家督相続が天正9年([[1581年]])、信直が南部家の家督を継承し当主となる<ref>{{Citation|和書|author=熊谷隆次|chapter=豊臣政権の八戸|title=新編八戸市史 通史編 原始・古代・中世|year=2015}}</ref>だとすると、[[南部晴継|晴継]]のページでの晴政から晴継への家督継承の時期が天正10年の記述とは整合性がない
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・[[九戸政実]]の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ[[九戸実親]]を推す意見もあったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった{{Sfn|阿部|西村|1990|p=590}}。このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。
 
これら南部宗家と一族間の内部抗争、ならび南部領内に度々侵入する外敵へ対処せざるを得なかったため、その間も大浦為信に津軽地方は切り取られていくのだが、南部氏側は有効な討伐を行うことができなかった。