「嵐橘三郎 (初代)」の版間の差分

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[[Fileファイル:Mitsu-kichi inverted.png|thumb|100px|三つ吉]]
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'''初代 嵐橘三郎'''(しょだい あらし きつさぶろう、[[明和]]6年〈[[1769年]]〉 - [[文政]]4年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]〈[[1821年]][[10月21日]]〉)とは、[[江戸時代]]中期の[[歌舞伎]]役者。[[俳名]]李冠、のちに「璃寛」と字を改む。[[屋号]]は[[岡嶋屋]]、[[雅号]]金橘楼。その俳名から「大璃寛」(おおりかん)と称された。定紋は三つ吉、替紋は三つ柏。
 
== 概要来歴 ==
[[嵐吉三郎 (初代)|初代嵐吉三郎]]の三男。[[安永]]5年(1776年)頃に嵐吉松の名で大坂の竹田芝居に出る。安永9年(1780年)に父吉三郎が死ぬと、[[嵐三五郎|二代目嵐三五郎]]につき修業する。[[天明]]7年(1787年)正月、二代目[[嵐吉三郎]]を襲名する。以後大坂を代表する人気役者となり、<!--江戸から[[尾上菊五郎 (3代目)|三代目尾上菊五郎]]が来坂の折は、人気を巡って双方の[[ファン|贔屓]]の間に訴訟騒ぎが起こるほどだった。-->文政4年(1821年)、吉三郎の名跡を甥の[[嵐吉三郎 (3代目)|三代目嵐大三郎]]に譲り、「吉」の字を「橘」に替え[[嵐橘三郎]]と名乗った。同年8月、大坂北新地芝居に出演中倒れ9月に没す。享年52。辞世の句は「つもるのも きゆるも世なり 六ツの花」。
 
美男で口跡も良く立役として活躍し「近世の稀人」と評され、[[中村歌右衛門 (3代目)|三代目中村歌右衛門]]とは大坂の芝居で人気を二分し、その俳名から「大璃寛」(おおりかん)と称された。なお初代橘三郎は実際には役者として「璃寛」を名乗ることは無かったが、通常「'''初代嵐璃寛'''」として歴代璃寛の内に入れられている。
 
== 参考文献 ==
* 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
 
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