「小早川秀秋」の版間の差分

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文禄4年([[1595年]])、秀俊は[[豊臣秀次#切腹事件|秀次事件]]に連座して丹波亀山城を没収された。しかし、同年のうちに隆景が主な家臣を連れて[[備後国]][[三原市|三原]]へ隠居した。秀俊はその所領三十万七千石を相続する形で[[筑前国]]([[名島城]])国主となった。小早川氏の家督相続にあたって[[付家老]]の[[山口宗永]]が隆景直臣の[[鵜飼元辰]]らから引き継ぎを受け、[[検地]]を実施して領内石高が定められた。なお、筑前東部の5万石については隆景の隠居領であり隆景の家臣が残っていたが、[[慶長]]2年([[1597年]])6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の[[村上氏]]・[[日野氏]]・[[草刈氏]]・[[清水氏]]が秀俊に仕官した<ref name="nakano1994">{{Cite journal |和書 |author = 中野等 |title = 小早川秀俊の家臣団について |date = 2008 |journal = 戦国史研究 |issue = 27号 |naid = }}</ref>。
 
=== [[慶長の役 ]]===
慶長2年([[1597年]])2月21日に秀吉より発せられた軍令により秀俊の[[朝鮮半島]]への渡海が決定し、[[釜山]]浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。
 
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慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年([[1599年]])2月5日付で[[徳川家康]]ら五大老連署の知行宛行状が発行され、筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した<ref name="horikoshi2010">{{Cite journal |和書 |author = 堀越祐一 |title = 知行充行状にみる「五大老」の性格 |date = 2010 |journal = 國學院大學紀要 |issue = 48号 |naid = }}</ref>。なお、この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定された博多への「守護不入」復活を約束している<ref name=ref name="honda1996"/>。
 
=== [[関ヶ原の戦い]] ===
[[File:Site of Kobayakawa Hideaki's Position.jpg|thumb|240px|松尾山にある関ヶ原の戦いの小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)]]
秀秋は当初、1600年8月26日(慶長5年7月18日)から1600年9月8日(8月1日)の[[伏見城の戦い]]では西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩り等をして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000<ref>[[参謀本部 (日本)|旧参謀本部]]『日本戦史』</ref>{{Refnest|group="注釈"|8,000とする資料もある<ref>『関原軍記大成』、『改正三河後風土記』</ref>。}}の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある[[松尾山 (岐阜県)|松尾山城]]に[[伊藤盛正]]を追い出して入城した。