「サラエボ事件」の版間の差分
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新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ[[親露]]的であり、オーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した{{sfn|MacKenzie|1995|pp=24–33}}。その後の10年間、セルビアは勢力の拡大に向かい、[[セルビア帝国|14世紀の帝国]]を徐々に再生しようとしたため、近隣諸国との間では数々の紛争が発生した。1906年に始まったオーストリア=ハンガリーとの[[関税]]戦争(一般に「[[豚戦争 (1906年)|豚戦争]]」と呼ばれる){{sfn|MacKenzie|1995|p=27}}、オーストリアによる[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]併合に抗議したことで引き起こされた1908-1909年の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合#ボスニア危機|ボスニア危機]]{{sfn|Albertini|2005|pp=291–292}}、そしてオスマン帝国からマケドニアとコソボを獲得し、ブルガリアを駆逐した1912-1913年の[[第一次バルカン戦争|第一次]]・[[第二次バルカン戦争]]がそのような紛争の例だった{{sfn|Albertini|2005|pp=364–480}}。
セルビアの軍事的成功と、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴビナ併合に対する怒りは、セルビア国内外のセルビア民族主義者を勢いづかせた。特にオーストリア=ハンガリー帝国領に住むセルビア人は、帝国による統治に不満を募らせており、その民族主義的感情はセルビア系の「文化的」な団体によって扇動されていた{{sfn|MacKenzie|1995|pp=36–37}}{{sfn|Albertini|1953|pp=19–23}}。1914年までの5年間、[[クロアチア]]とボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、単独犯の暗殺者(主にオーストリア=ハンガリー領内のセルビア人市民
[[File:Gavrilo Princip, outside court.jpg|thumb|left|200px|[[ガヴリロ・プリンツィプ]]]]
1910年6月15日、{{仮リンク|ボグダーン・ツェラジッチ|en|Bogdan Žerajić}}は当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナ総督{{ill2|マリヤン・ヴァレシャニン|en|Marijan Varešanin}}の暗殺を試みたが、失敗した。
1913年、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]は大公フランツ・フェルディナントに対し、1914年6月に予定されているボスニアでの軍事演習を視察するよう命令した{{sfn|Dedijer|1966|p=285}}。大公とその妻ゾフィーは、演習の後に[[サラエボ]]を訪問し、そこに新設される国立博物館の開館に立ち会うことを計画した{{sfn|Dedijer|1966|p=9}}。大公夫妻の長男[[マクシミリアン・ホーエンベルク]]によると、ゾフィーが視察旅行に同行したのは夫の安全を危惧してのことだった{{sfn|Dedijer|1966|p=286}}。
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大公夫妻が暗殺された6月28日([[ユリウス暦]]における6月15日)は、セルビアでは[[ルカニアのヴィトゥス|聖ヴィトゥス]]の日({{lang|sr|Vidovdan}})と呼ばれる祝日であるのと同時に、[[1389年]]の[[コソボの戦い]]の記念日でもあり、コソボの戦いではオスマン帝国の[[スルタン]]がセルビア人によって暗殺される事件が起きていた<ref>{{cite book|author=Isabelle Dierauer|title=Disequilibrium, Polarization, and Crisis Model: An International Relations Theory Explaining Conflict|url=https://books.google.com/books?id=GCuDsecLWmYC|date=16 May 2013|publisher=University Press of America|isbn=978-0-7618-6106-5|page=88}}</ref>。
==暗殺==
[[File:Heeresgeschichtliches_Museum_Wien_Attentat_in_Sarajevo_Auto_201703.jpg|thumb|200px|大公フランツ・フェルディナント夫妻が暗殺時に乗っていた1911年式[[グラーフ&シュティフト]] 28/32 PS(2017年に[[ウィーン軍事史博物館]]で撮影)]]
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