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北伐 {{一次資料|date=2019年4月}}
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{{三国志の人物
|名前 = 張裔
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劉璋が降伏すると劉備に仕え、[[巴郡]][[太守]]・司金中郎将に任じられ、農具と武器の製造を司った。さらに建寧太守の正昂が現地の豪族に殺害されると、その後任として益州太守(永昌太守の説あり)になったが、[[雍ガイ|雍闓]]に捕らえられ[[呉 (三国)|呉]]に送られてしまった。後に[[トウ芝|鄧芝]]が呉との講和に赴いた際、[[蜀漢]]に帰還することを許されたが、もう既に58歳だったという。なお、呉の[[孫権]]は張裔がどのような性格の人物か把握していなかったため、返還の前に一度会談した。すると、孫権は益州の風土や、もし蜀漢に帰ったら何を持って報いくれるかなどを問い、張裔の返答を気に入りその才覚を認めて呉にとどめようと追っ手を差し向けて連れ戻そうとした。このため、張裔は愚者の振りをしなかったことを後悔しつつ、船の速度を速め全速力で逃げ延びたという。
 
張裔は帰国すると早々に重用を受け、参軍・益州治中従事に任じられた上で、[[諸葛亮]]の傍らで軍務を執り仕切った。[[227年]]、諸葛亮が[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]のため[[漢中郡|漢中]]に駐屯した時には、射声[[校尉]]の地位にあり、さらに[[楊洪]]の反対をおしきった諸葛亮から留府長史を任された(楊洪伝)。また翌[[228年]]には、前線の諸葛亮の下へ事務の打ち合わせに赴いている。その際、数百人もの人が彼を見送ったという。「公は賞するに疎遠な者でも遺さず、罰するに近親者にも阿らず、爵は功無き者に取らせず、刑は貴勢でも免れさせぬ。これぞ賢愚ともみなその身を忘れる理由である」と常に称えられたという。
 
最終的には輔漢将軍まで昇進し、長史を引き続いて兼務した。230年に死去した。